2013年11月8日金曜日

マーケティング

アマゾンの倉庫から蔵出しして、クラウドの海に放り込んだ。

クラウドの海を漂う漂流物のようなものだ。

ビジビリティは極めて低い・・・


クラウドの海でアートハーバーのプレゼンスが高まることは期待できない。

オンラインマーケティングの限界である・・・


マーケティング、これくらいまでしか思いつかない・・・

あとは、成り行き任せ・・・


あとは、あお文庫の点数を増やして、アマゾンでビジビリティとプレゼンスを高めるしかない。


アート・ハーバーとは


アートのバーチャル国際貿易港


開港記念日:2006年12月1日

言語:マルチ言語


各港は、バーチャルな世界へ向けて、作品を輸出できる

人や組織などは、バーチャルな世界から、作品を輸入できる


現時点輸出品目: アートに関する活動などを「写真と文などで表現した作品」

輸出方法: 各港で作品をこのブログに書き込むことで、輸出したものとみなす

輸入方法: 人や組織が作品をこのブログで参照することで、輸入したものとみなす

注文方法: 感想などをコメントに入れることで、注文したものとみなす


将来、、、列車、飛行機、船、車、バスなどを利用して、リアルな人や物が輸出入できる?


アート・ハーバー


宮沢 賢治(みやざわ けんじ、本名:宮澤 賢治、1896年(明治29年)8月27日[1] - 1933年(昭和8年)9月21日)は、日本の詩人、童話作家。

郷土岩手に基づいた創作を行い、作品中に登場する架空の理想郷に、岩手をモチーフとしてイーハトーブ(Ihatov、イーハトヴあるいはイーハトーヴォ(Ihatovo)等とも)と名づけた[2]。
生前は無名に近い状態であったが、没後に草野心平らの尽力により作品群が広く知られ、世評が急速に高まり国民的作家とされていった。


1896年(明治29年)8月27日、岩手県稗貫郡里川口村(のちの行政区再編により花巻川口町、花巻町を経て、現花巻市)において、質・古着商を営む宮澤政次郎(1874年 - 1957年)とイチ(1877年 - 1963年)の長男として生まれ、同年8月1日付戸籍上の出生届がなされた。弟に清六(1904年 - 2001年)、妹にトシ(1898年 -1922年)、シゲ(1901年-1987年)、クニ(1907年 - 1981年)がいる。
生誕の約2ヶ月前である1896年6月15日に発生した三陸地震津波による震災が、県内に多くの爪痕を残した中での誕生であった。また誕生から5日目の同年8月31日には秋田県東部を震源とする陸羽地震が発生し、秋田県及び岩手県西和賀郡・稗貫郡地域に大きな被害をもたらした。この一連の震災の際に、母・イチは賢治を収容したえじこ(乳幼児を入れ守る籠)を両手でかかえながら上体をおおって念仏を唱えていたという[3]。
家業が質店の息子であった賢治は、農民がこの地域を繰り返し襲った冷害などによる凶作で生活が困窮するたびに家財道具などを売って当座の生活費に充てる姿にたびたび接し、この体験がのちの賢治の人格形成に大きな影響をもたらしたとされている。
1903年(明治36年)、花巻川口尋常高等小学校に進学。マロの『家なき子』などの童話を好み、石や昆虫を採集し、綴り方に長じていた。鉱物採集に熱中し、家人から「石っこ賢さん」や「石こ賢さん」などと呼ばれた。浄土真宗門徒である父祖伝来の濃密な仏教信仰の中で育った影響から、父と有志が始めた「我信念」と題する仏教講話に参加。
1909年(明治42年)、旧制盛岡中学校(現・盛岡第一高等学校)に進学、寄宿舎「自彊(じきょう)寮」に入寮した。同学在学中にも鉱物採集に熱中。「HELP」のあだ名がつく[4]。岩手山・南昌山などの山登りにも熱中し、南昌山では寄宿舎で同室の藤原健次郎(賢治より1学年上。1910年没)と水晶を採集する。哲学書を愛読。在学中に短歌の創作を始める(学校の先輩である石川啄木の影響が推測されている)。家庭の方針で進学の見込みがほぼなかったためか、教師への反抗的態度をみせ、1913年(大正2年)、寄宿舎の新舎監排訴の動きにより退寮となり、盛岡の寺院に下宿する。
1914年(大正3年)、盛岡中学校を卒業。肥厚性鼻炎を患い、盛岡の岩手病院(現・岩手医科大学付属病院)に入院。この時、看護婦に恋心を抱くが片想いに終わる。また看病していた父も病に倒れて父子共々入院することになった。退院後自宅で店番などするが、その生気の無い様子を憂慮した両親が上級学校への進学を許可する。同時期に、島地大等訳『漢和対照妙法蓮華経』を読み、体が震えるほどの感銘を受ける[5]。
1915年(大正4年)、盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)に首席で進学。関豊太郎教授の指導の下で地質調査研究を行う。1917年(大正6年)、小菅健吉、保阪嘉内、河本義行と同人誌『アザリア』を創刊し、短歌・小文などを発表する。
1918年(大正7年)、3月、得業論文『腐植質中ノ無機成分ノ植物ニ対スル価値』を提出し、卒業。4月、同学の研究生となる。卒業で徴兵猶予の特典が無くなったため、徴兵検査を受けて第二乙種合格となる(当時は、第二乙種には兵役は課せられなかった)。 この間、『アザリア』同人の保阪嘉内が同誌に掲載した文章が原因で研究生を退学処分となり、以後数年間にわたって保阪との親交を深める。家族の証言等からこの年から童話の創作が始まったと推定される。 同年肋膜炎を患い、医師の診断を受ける。このとき河本義行に「自分の命もあと15年はあるまい」と述べたとされる。
1919年(大正8年)、前年末に日本女子大学校生の妹トシが病気となり母とともに東京で看病する。この滞京中に盛岡中学同窓の友人阿部孝(当時東京帝大文学部在学、後に高知大学学長)の下宿で萩原朔太郎の詩集『月に吠える』に出会い感銘を受ける。近角常観の求道学舎にも訪れている。また、東京での人造宝石の製造販売事業を計画するが、父の反対にあう。トシ回復とともに岩手に戻る。
1920年(大正9年)、研究生を卒業。関教授からの助教授推薦の話を辞退。10月国柱会に入信。自宅で店番をしながら、信仰や職業をめぐって父と口論する日々が続く。保阪嘉内には国柱会の入信を手紙で強く勧めたが決裂(7月18日)。
1921年(大正10年)、1月23日家族に無断で上京し鶯谷の国柱会館を訪問。本郷菊坂町に下宿する。学生向けの謄写版制作の職に就きながら、盛んに童話の創作をおこなう[6]。また、国柱会の街頭布教にも参加。夏にトシ発病のため岩手に帰る。11月、稗貫農学校(のちに花巻農学校、現花巻農業高等学校)教師となる。
1922年(大正11年)、11月27日、よき理解者であった妹トシ病死。
1923年(大正12年)、8月、教え子の就職斡旋の名目で樺太を訪問。この旅行をモチーフとした多くの詩を作る。
1924年(大正13年)、4月、心象スケッチ『春と修羅』を自費出版。辻潤が同詩集を賞賛。農学校生徒と演劇を上演、一般公開。12月、イーハトヴ童話『注文の多い料理店』を刊行。
1925年(大正14年)、7月から草野心平と書簡を通じた親交を開始。草野編集の文芸誌『銅鑼』に詩を発表。12月、花巻の北上川で発見したバタグルミ(クルミの古種)化石の学術調査(東北帝国大学・早坂一郎教授)に協力。翌年発表された早坂の学術論文にて名前を挙げて感謝の意が記載される。
1926年(大正15年)、3月末で農学校を依願退職。花巻町下根子桜の別宅にて独居自炊。羅須地人協会を設立し、農民芸術を説いた。12月に上京し、タイピングやエスペラント、オルガンやセロを習う。このとき、フィンランド公使ラムステットの「北アジア」についての講演(日本語)に参加し、ラムステットと会話を交わした。また人文主義者として労働農民党の岩手県での有力献金者であった。以降、農業指導に奔走。
1927年(昭和2年)、『銅鑼』『盛岡中学校校友会雑誌』に詩を掲載。3月、羅須地人協会の活動に関して警察の聴取を受けたことから協会の活動を停止。花巻温泉に勤めていた教え子を通して、温泉の遊園地に自らがデザインした花壇を造成する。
1928年(昭和3年)、『聖燈』に詩を掲載。湯本村伊藤庄右衛門主催の農事講演会に出講。6月、農業指導のため伊豆大島の伊藤七雄を訪問。この旅行を題材にした詩群『三原三部』『東京』を制作。夏、農業指導の過労から病臥し、秋に急性肺炎を発症。以後約2年間はほぼ実家での療養生活となる。この間、療養生活を綴った詩群『疾中』などを創作。
1931年(昭和6年)、病気から回復の兆しを見せ、東山町(現在の一関市)の東北砕石工場技師となり石灰肥料の宣伝販売を担当。9月、農閑期の商品として壁材のセールスに出向いた東京で病に倒れ、帰郷して再び療養生活に入る。その傍ら文語詩を初めとする創作活動も行った。11月3日、手帳に『雨ニモマケズ』を書き留める。
1932年(昭和7年)、『児童文学』に「グスコーブドリの伝記」、『岩手詩集』『女性岩手』『詩人時代』に詩、『鴉射亭随筆』附録に「石川善助を弔む」を掲載。
1933年(昭和8年)吉田一穂編『新詩論』吉野信夫編『詩人時代』『日本詩壇』(日本書房)『現代日本詩集』(詩人時代社)『女性岩手』『北方詩人』に詩を『天才人』に童話を掲載。9月21日に急性肺炎で死去した。享年37。法華経1000部を印刷して知人に配布するよう父に遺言。生涯独身であった。死の前日、農民に夜遅くまで肥料の相談を受けていたという。戒名は真金院三不日賢善男子。なおこの戒名は、国柱会から授与されたもので、東京都江戸川区一之江にある、国柱会の霊廟には、賢治の遺骨の一部と妹トシの遺骨が納められている。
この年3月3日に「三陸沖地震」(理科年表No.325)が発生し、大きな災害をもたらした。誕生の年と最期の年に大きな災害があったことは、天候と気温や災害を憂慮した賢治の生涯と何らかの暗合を感ずると宮澤清六は指摘している[7]。地震直後に詩人の大木実(1913年-1996年)へ宛てた見舞いの礼状[3]には、「海岸は実に悲惨です」と津波の被害について書いている[8]。


生前に刊行された唯一の詩集として『春と修羅』、同じく童話集として『注文の多い料理店』がある。また、生前に雑誌や新聞に投稿・寄稿した作品も少ないながら存在する(『やまなし』『グスコーブドリの伝記』など)。ただし、賢治が受け取った原稿料は、雑誌『愛国婦人』に投稿した童話『雪渡り』で得た5円だけであったといわれる。 しかし生前から注目されていた経緯もあり、死の直後から、主に草野心平の尽力により多数の作品が刊行された。最初の全集は(作品全体からは一部の収録ではあるものの)早くも死去の翌年に文圃堂より刊行され、続いて文圃堂から紙型を買い取った十字屋書店がそれに増補する形で1939年から1944年にかけて出版した。戦後は筑摩書房から(文庫判も含め)数次にわたり刊行されている(主な作品は次項参照)。
広く作品世界を覆っているのは、作者みずからの裕福な出自と、郷土の農民の悲惨な境遇との対比が生んだ贖罪感や自己犠牲精神である。また幼い頃から親しんだ仏教も強い影響を与えている。その主な契機としては浄土真宗の暁烏敏らの講話・説教が挙げられるが、特に18歳の時に同宗の学僧島地大等編訳の法華経を読んで深い感銘を受けたと言われる。この法華経信仰の高まりにより賢治は後に国粋主義の法華宗教団国柱会に入信するが、法華宗は当時の宮沢家とは宗派違いであったので、父親との対立を深めることとなった。弱者に対する献身的精神、強者への嫌悪などの要素はこれらの経緯と深い関わりがあると思われる。また、良き理解者としての妹トシの死が与えた喪失感は以後の作品に特有の陰影を加えた。
なお、特筆すべきは作者の特異で旺盛な自然との交感力である。それは作品に極めて個性的な魅力を与えた。賢治作品の持つ圧倒的魅力はこの天性を抜きには説明できない。
また、童話作品においては擬声語(オノマトペ)を多用し、作品によっては韻文にも近いリズム感を持った文体を使用したことも大きな特徴である。賢治の童話は同時代に主流とされた『赤い鳥』などの児童文学作品とはかなり異質なものであった[9]。
賢治の作品には世界主義的な雰囲気があり、岩手県という郷土への愛着こそあれ軍国的要素や民族主義的な要素を直接反映した作品はほとんどみられないが、賢治は24歳に国柱会に入信してから、時期によって活動・傾倒の度合いに差はあるものの生涯その一員であり続けたので、その社会的活動や自己犠牲的な思想について当時のファシズム的風潮との関連も議論されている。また、当時流行した社会主義思想(親友・保阪嘉内など)やユートピア思想(「新しき村(武者小路実篤)」、「有島共生農場(有島武郎)」、トルストイ・徳富蘆花、「満州・王道楽土(農本主義者・加藤完治や、国柱会の石原莞爾)」など)の社会思潮の影響を考えるべきであるという見解も見られる。晩年には遺作『銀河鉄道の夜』に見られるようにキリスト教的な救済信仰をも取り上げ、全人類への宗教的寛容に達していたことが垣間見られる。宗教学者からは、賢治のこうした考え方の根本は、法華経に基づくものであると指摘されている[10][11]。
戦後は賢治の生き方や作品にみられる人文主義や平和主義的側面が注目され、特に近年は環境運動思想とも関連づけられて高く評価されることが多い。
賢治は、いったん完成した作品でも徹底して手を加えて他の作品に改作することが珍しくなかった。この点から賢治は「最終的な完成」がない特異な創作概念を持っていたという見方があり、自身が書き残した『農民芸術概論綱要』においても「永久の未完成これ完成である」という記述がある。多くの作品が死後に未定稿のまま残されたこともあり、作品によっては何度もの修正の跡が残されて全集の編集者が判読に苦労するケースも少なくなかった。そうした背景から、原稿の徹底した調査に基づき逐次形態をすべて明らかにする『校本 宮澤賢治全集』(筑摩書房、1973~77年)が刊行され、作品内容の整理が図られた。
これらの草稿調査によって賢治の遺稿はほぼ調べ尽くされたと見られていたが、生家の土蔵から未発表の詩の草稿1枚(地形図の裏に書かれたもの)が発見されたことが2009年4月に公表された[12]。
賢治は音楽に深い関心を持っており、自身が作詞作曲の歌がいくつか残されている。 代表作「星めぐりの歌」は賢治ゆかりの作品等を通じて現在でも親しまれている。 この歌は知人の採譜によって譜面化されたものであり、直筆の譜面は存在しない。
賢治は自ら学んだエスペラントでも詩作を試みたが、公表されたのは1953年である。これらの作品のほとんどは自らの作品のエスペラントへの翻訳、改作である。[13]

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