2015年7月5日日曜日

アインシュタイン

アインシュタインは靴下をはいていなかった。 ズボンも穴が開いたのを修繕したのをはいていた・・・

アインシュタインは、5歳頃まであまり言葉を話さなかったと伝えられる。そのことで、単なる記号処理的な頭脳の働きでなく、全体を把握する能力を養ったという意見もある。

5歳のときに父親からもらった方位磁針が、自然界の仕組みに対する興味をもたらすきっかけとなった。また、6歳頃にはヴァイオリンを習い始めた。

ミュンヘンにあるカトリック系の公立学校へ通ったが、その校風になじめなかった。卒業後はミュンヘンのルイトポルト・ギムナジウム(英語版)に入学。しかし、ここでもまた軍国主義的で重苦しい校風になじめなかった。

1902年、友人のマルセル・グロスマンの父親の口利きでベルンの、スイス特許庁に3級技術専門職(審査官)として就職した。年俸は3,500スイス・フランであった。

ここで好きな物理学の問題に取り組む自由がたっぷりでき、特許申請書類の中のさまざまな発明理論や数式を知る機会を得る。

1905年、博士号を取得すべく「特殊相対性理論」に関連する論文を書き上げ、大学に提出した。しかし内容が大学側に受け入れられなかったため、急遽代わりに「分子の大きさの新しい決定法」という論文を提出し、受理されている。この論文は「ブラウン運動の理論」に発展した。この年は「奇跡の年」として知られている。アインシュタインは「光量子仮説」「ブラウン運動の理論」「特殊相対性理論」に関連する五つの重要な論文を立て続けに発表した。

1955年4月11日、哲学者バートランド・ラッセルとともに核兵器の廃絶や戦争の根絶、科学技術の平和利用などを世界各国に訴える内容のラッセル=アインシュタイン宣言に署名する。

科学的業績によって得た世界的名声を背景に、アインシュタインは様々な政治的発言を行っている。第一次世界大戦中は平和主義を掲げ、戦争を公然と批判した。

大の親日家である。改造社の招待で訪日したアインシュタインは、講演の合間に観光。特に気に入ったものは、「新橋橋善」の天ぷら弁当。そこに添えられていた「新橋玉木屋」の昆布の佃煮であった。

当時の靴下はすぐに破れてしまうため嫌いで、常に靴を素足のまま履いていたという。

「アインシュタインが原子爆弾の理論を発見した」あるいは「アインシュタインが原子爆弾の開発者」という誤解広くも存在するが、質量とエネルギーの関係式:E=mc²は、あらゆるエネルギーについて成り立つ式であり、特に原子力に関係した公式ではない

日本建築や絵画、音楽も鑑賞し、日本文化や日本人を賛美していたとか。当時のマンガ家がイラストとともにエピソードを。ズボンはつくろいのあるもの。穴が開くからと靴下ははかず。一等車をきらい、ぜいたくな部屋や料理にはクレームも。荷物は自分で。宿屋の従業員にも一人ひとり丁寧にお辞儀を。

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