2015年7月1日水曜日

無宗教です

僕は無宗教です。

だが、僕は無神論者ではない。

人智を超えたものが神だと思っている。


無神論(むしんろん、英語atheismラテン語atheismus)は、世界観の説明にの存在、意思の介在などが存在しない、または不要と主張する考え方である。


無宗教」と混同されがちだが、無宗教は特定の宗教を支持しない状況を指しており、積極的に神を否定する無神論と厳密には区別して考えられるべきである。唯物論機械論を無神論とみなす者もいるが、これらの理論は霊魂や物質世界への超越的な力の介入を否定しているのであって、必ずしも神の存在を否定しない。
無神論は一般的には既存宗教と対立するとみなされる考え方であり、両者の間には軋轢が生じることも多い。しかし、近年では科学の発展や浸透に伴って唯物論的な考え方が一般に受け入れられてきており、無神論に対する風当たりは弱まってきているとされる。一方で、保守的な地域では無神論に対する根強い不信感もある。さらに、アメリカ合衆国で台頭したインテリジェント・デザイン論のように、表向きでは科学と宗教の融合ないし折衷を自称しながら、実質的に自然科学を排斥する運動も見られる。厳格な無神論者は、宗教に対する激しい敵意を抱くことも多い。共産主義国における宗教の弾圧や虐殺などが無神論と結び付けられることも多い[要出典]
神の観念は実に多様であるため、神の定義如何によってどんな考え方も無神論とみなしうるし、その逆も成り立つ。故に一部の一神教徒が汎神論宗教や仏教を「無神論」とすることがあり、逆に一部の多神教徒が一神教徒を「無神論」とすることもある。そのため無神論にはいくつかの定義が存在する。
  • 広義には、また歴史的には「一神教におけるような唯一絶対の造物主を認めない立場」を指すが、
  • 狭義に「神もしくはその他の類似の名前の付いた、人間や自然を超えた存在すべてを認めない立場」を指して無神論と呼ぶ。
前者の定義に当てはめれば、仏教儒教は無神論的宗教であるが、後者の定義に当てはめれば有神論的宗教とみなされる。
無神論は、神の存在についての考察や議論を避ける消極的無神論と、神の不在を明言する積極的無神論に分けられる。無神論の明確な対義語は有神論である。理神論汎神論は、無神論と対義的に扱われることもあるし、消極的無神論の一部とみなされることもある。消極的無神論と不可知論は、時に見分けがつかないか重複する。積極的無神論者は常に宗教を批判するわけではない。したがって、反宗教主義と積極的無神論は区別されなければならない。宗教批判を行う強い無神論者は、しばしば「戦闘的無神論者」と呼ばれる。この語は信仰を持つ人を愚かであると見なすような、節度を越えた宗教批判へ非難の意味を込めて用いられることもある。
キリスト教の教義では神は、人間の「生前の行動が、最後の審判(死後の裁き)での判断基準となる」としている(解釈されている)が、全知全能たる神が、どの人間が正しい行動をとり、どの人間が正しくない行動をとるかを前もってわからないわけがないはずであり、この「全知全能たる神」の存在に関しての解釈(または説、説明)は、矛盾する点が指摘されている(予定説を参照)。
仏教は宗教学の類型では無神的宗教と呼ばれ、無神論とされることが多い[1]。フォイエルバッハやジークムント・フロイトのように神を人間の発明とする考え方は、仏教に通じるとされる[2]。ショーペンハウアーは仏教を「完璧」と言ったことがあり、エンゲルスも部分的ではあるが仏教のを評価した[3]。しかし、仏教においてはキリスト教的な意味における「全知全能たる神」の存在を「考えていない」だけに過ぎないとする見方がある[要出典]。仏教では、そのような問題を無意味な議論として忌む傾向が強い。このような考え方はむしろ不可知論に近いとされるが、不可知論は「存在の可能性」を想定した上で、その「不可知」を論じている点など、根本的な違いがある(詳しくは、諸法無我ブッダ(仏)と神等を参照)。また、仏教自体が宗教ではなく衛生学であると(好意的に)解釈したニーチェのように、仏教を宗教とはみなさない者もいる。
神について「敬して遠ざける」としている儒教についても、無神論とみなされる場合が多い。事実、儒学者の中には無神論を積極的に唱える者も存在した。神道汎神論の一種と見なす考えも存在する[要出典]。「汎神論」=「無神論」という考えからすれば、神道もまた無神論の一種ということになる。
上述の通り、今日においても宗教学はキリスト教中心主義的な定義を行っており、唯一神教以外の宗教は無神論とみなされがちである。仏教などを無神論として分類する欧米の学者に対しては、それらの宗教の中で自説にあう側面のみを選択的に取り上げているという批判もある。
より中立的な定義として、神またはその他の名を持つ、人間を超えた超自然的な存在を考えない立場のことを無神論とするという意見もある。この場合、既存の宗教はほぼすべて有神論に分類され、純粋な唯物論や機械論が無神論となる。
冷戦終結以前の社会主義国では、キリスト教徒やイスラム教徒を始めとする宗教の信者は過酷な迫害に苦しんだ。共産主義国家、マルクス・レーニン主義政権国家の多くは、虐殺や宗教施設(聖堂モスク寺院など)の破壊を含む手段で宗教を弾圧した。しかし、共産主義者が無神論の立場をとっていたとしても、社会主義国が無神論の立場をとったために残虐であった、ということを意味しない。これを混同した無神論に対する反論も多い。

一般的な語源は古代ギリシャの「atheos」「asebs」「atheots」である。古代ギリシアの民族や国家(ポリス、ギリシアの都市国家)においてその守護神を信じない「ある人々」(例:アテナイで女神アテナを信じない人たち)を示した。
キケロがラテン語で翻訳したことから、ラテン語を語源とする説もある。無神論者はラテン語で「atheus」という。

古代インドブッダと同時代人のアジタ・ケーサカンバリンがおり、彼を中心とする順世派(チャールヴァーカ Cārvāka)は無神論的な思想を展開した。神のような超越的な原理でなく、社会倫理やその改革を訴えた。
古代ギリシアでは、まずデモクリトスエピクロスが唯物論に基づく無神論的な思想を提唱し、ローマ時代にはルクレティウスがそれをより明確な無神論の形で提唱した。


汎神論(はんしんろん)とは、全ての物体や概念・法則がの顕現であり神性を持つ、あるいはそのものであるとする世界観哲学。万有神論。汎神教は、世界のすべてを神の現れとする宗教[1]一神教多神教を問わず、歴史上のさまざまな宗教に汎神論的傾向がみられるとされる。古代インドのヴェーダウパニシャッド哲学、ソクラテス以前のギリシア思想、近代においては、スピノザゲーテシェリング等の思想がこれに属する。
英語の pantheism (パンセイズム)は、ギリシア語の pan(全て)と theos(神)の合成語で、文字どおり「全ては神」で「神は全て」を意味する[2]。つまり神と一切万物(または宇宙・世界・自然)とが同一であるとする思想であるが、一口に汎神論といってもさまざまな形態がある。一方では「神が全てである」ことを強調する無宇宙論 (acosmism) があり、他方では「森羅万象が神である」ことを強調する汎宇宙論 (pancosmism) がある[3]。後者の立場は一種の唯物論に通じ、無神論的とされる場合がある。ドイツの哲学者K・C・F・クラウゼは、万物は神に内在すると捉える万有在神論 (panentheism) を主張した[3]

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