2017年7月6日木曜日

老人と海

老人と海は出版しません。






        老人と海

        ヘミングウェイ 作

        青柳洋介 訳


 老人はひとりで小舟で釣りをしていた。場所はガルフストリーム(メキシコ湾流)だった。八十四日間、一匹も釣れなかった。最初の四十日間は、少年が老人といっしょだった。四十日たっても、一匹も釣れないので、少年の両親が言った。老人は究極のサラオだ。つまり、もっとも不運だ。両親は少年にほかの舟に移るように言った。その舟では最初の一週間で大物が三匹釣れた。毎日、空舟で戻ってくる老人を見て、少年は気の毒に思った。少年は釣り糸や魚かぎやモリ、そして帆が巻き付いたマストを運ぶのを手伝った。巻き付いている帆は粉袋でつぎ当てされていて、それは永遠の敗北を示す旗のように見えた。
 老人は痩せていた。首の後ろには深いしわがあった。頬には熱帯の海の反射がもたらした茶色のしみがあった。しみは顔の両側にあった。重たい魚を扱うので、手には傷跡があった。でも、それは古傷だった。魚がいない砂漠にある古い浸食のようだった。
 老人のあらゆるものは衰えていたが、目だけは違った。海と同じ色で、生気があり、不屈の精神を表していた。
 
 少年が言った。

 「サンチアゴ、またあんたといっしょにやりたい。おいらは金を稼いだ」

 老人がその少年に魚釣りを教えた。少年は老人を愛していた。

 老人が言った。

 「ダメだ。あんたはラッキーな舟に乗っている。それでやってな」

 「八十四日間も、一匹も釣れなかった。おいらは三週間毎日、大物を釣ったよ」

 老人は言った。

 「確かに。だからと言って、あんたが俺の舟を降りたのではないことも分かっているよ」

 「パパがそうしろと言ったんだ。僕は子供なので、パパには逆らえない」

 老人は言った。

 「分かっているさ。当たり前の話さ」

 「パパはそんなに信頼できない」

 老人は言った。

 「そうかもな。でも、俺たちは信頼し合っているよな?」

 少年が言った。

 「うん、テラスでビールを注文しようか? その後で、食い物を家に持って帰ろうよ」

 老人は言った。

 「いいよ。漁師仲間だからな」

 ふたりはテラスに座った。漁師の多くが老人をからかった。でも、老人は腹を立てなかった。老人を見て、気の毒に思う年配の漁師もいた。でも、彼らは気の毒なそぶりを見せずに、実際にあったことを話した。潮流や釣り糸を流す深さや安定した天候などのことを熱心に話した。その日、釣果があった漁師はすでに陸に上がっていた。釣ったカジキを解体して、二枚の厚板にカジキを乗せて、ふたりの男がよたよたしながら、魚小屋へ運んだ。ふたりはハバナの市場へ運ぶ保冷車を待っていた。サメを釣った者たちは、サメを入り江の反対側にある工場へ運んだ。サメは作業台で解体された。内蔵を取り除き、ひれは切り落とし、皮をはぎ、塩漬けするために肉は短冊に切った。
 東風の時は、港を超えて、工場から臭いが漂ってきた。その日は、悪臭はかすかだった。北風だったが、その時は風は止んでいた。テラスには日が燦々と入っていた。

 少年が言った。
 「サンチアゴ」

 老人が言った。

 「うん」

 老人はグラスを手に持って、昔のことを考えていた。

 「明日のイワシを捕ってこようか?」

 「いいや。野球をしに行きな。わしはまだ舟をこげる。ロゲリオが網を投げる」

 「おいらは捕りに行きたいよ。あんたと釣りができないなら、何か手伝いたいよ」

 老人は言った。

 「あんたはわしにビールをごちそうしてくれた。あんたはもう大人だ」
 
 「あんたが初めて舟に乗せてくれた時、おいらは何歳だったっけ?」

 「5歳だよ。あんたは死にそうだったよ。あまりにも生きがいい魚を釣ったんで、舟が壊れそうだった。覚えているかい?」

 「覚えているよ。魚が尻尾をバタバタさせて、舟の横木が壊れて、バンバンと音がした。あんたはおいらを舟のへさきへ放り投げた。巻いた釣り糸があった。舟全体が震えていた。あんたが魚をバンバン叩いた。木を叩き切るような音だった。甘い血の匂いが充満した」

 「本当に覚えているのかい? わしがあんたに話したんじゃなかったけ」

 「初めて舟に乗った時から、全部覚えているよ」

 老人は陽で焼けた愛情に満ちた目で少年を見た。そして、老人は言った。

 「あんたがわしの息子なら、あんたといっしょに釣りに出るんだが。でも、あんたはパパとママのものだ。あんたはラッキーな舟に乗っている」

 「イワシを捕ってこようか? 四匹」

 「昨日のエサが残っているよ。塩漬けにしてエサ箱に入れている」

 「新鮮なやつを捕ってくるよ」

 老人は言った。

 「一匹」

 老人の希望と自信は消えていた。でも、今は希望と自信がそよ風のように湧いてきた。

 少年は言った。

 「二匹」

 老人は頷いた。

 「二匹。盗むのか?」

 少年は言った。

 「盗みたいけど、捕るよ」

 老人は言った。

 「ありがとさん」

 老人はとても素直だったので、屈辱を感じなかった。だが、それが屈辱であることも分かっていたが、みっともないとは思わなかったし、本当のプライドは傷つかなかった。

 老人は言った。

 「明日は、潮の流れが良いようだ」

 少年が尋ねた。

 「どこへ舟を出すの?」

 「風が変わったら、ずっと遠くへ出る。風が弱まらないうちに舟を出したい」

 少年は言った。

 「親方を遠くへ出させよう。大物がかかったら、手伝いができる」

 「あんたの親方は遠くに出るのが好きではない」

 少年は言った。

 「うん。親方は鳥のようには見えないので、おいらが見る。親方にイルカの後を追わせよう」

 「親方の目はそんなに悪いのかい?」

 「ほとんど見えないよ」

 老人は言った。

 「それは変だな。親方はカメ捕りには行かなかった。カメ捕りは目を悪くする」

 「でも、あんたはモスキート・コーストへ何年もカメ捕りに行った。あんたの目は大丈夫だ」

 「わしは変わった老人さ」

 「でも、あんたは今でも大物を狙うだけ強いよね?」

 「そうだが。それにはタネも仕掛けもある」

 少年は言った。

 「食い物を家へ持って帰ろうよ。おいらは投網を持って、イワシを捕りに行く」

 ふたりは舟から道具を降ろした。老人は肩にマストを担いだ。少年は茶色の釣り糸が入った箱と魚かぎとモリを運んだ。エサ箱はこん棒といっしょに舟のともの下に置いてあった。こん棒は大物が釣れた時に処置するのに使う。盗む者はいなかったが、帆と釣り糸は露が付くと良くないので小屋に持って帰った。地元の人が盗むとはまったく思っていなかったが、魚かぎとモリも舟に置いたままにするのは良くないと思っていた。
 老人と少年は小屋へ向かって歩いて、開け放しのドアから中へ入った。老人は帆が巻き付いたマストを壁に立てかけた。少年は箱とその他の道具をそのわきに置いた。小屋はグアノと呼ぶヤシで作られていた。小屋の中にはベッドがひとつ、テーブルがひとつ、椅子がひとつあった。調理場の床は炭で料理するので汚れていた。グアノの硬い葉で覆われた茶色の壁にはキリストの絵とマリアの絵が掛けてあった。これは妻の遺品だった。昔は、壁には妻の写真も掛けてあったが、写真を見ると寂しくなるので取り外した。写真は壁の隅の棚に置いた。そして、自分の綺麗なシャツを写真の上にかけた。

 少年が尋ねた。

 「なんか食べなくっちゃ」

 「魚入りのご飯がある。食べるかい?」

 「いいや。おいらは家で食べる。火を起こそうか?」

 「いいよ。わしが後で起こすよ。冷や飯を食うかもしれんが」

 「投網を持って行っていい?」

 「もちろんさ」

 投網はなかった。少年は投網は売ってしまったのを知っていた。でも、ふたりは毎日、こんなふうに芝居をした。魚入りのご飯もなかった。少年はそれも知っていた。

 老人は言った。

 「八十五はラッキーナンバーだ。わしが千ポンド以上の大物を持って帰ってくるのを見たいだろ?」

 「投網を持って、イワシを捕りに行くよ。戸口の日向に座っていなよ」

 「ああ。昨日の新聞がある。野球の記事を見るよ」

 少年はこれも作り話かは分からなかったが、老人はベッドの下から新聞を取り出して、説明した。

 「雑貨屋のペドリコが新聞をくれた」

 「イワシを捕ったら戻るよ。あんたの分とおいらの分といっしょに氷漬けにして、明日の朝、分けようよ。おいらが戻ったら、野球の話をしてよ」

 「ヤンキースが負けるはずはない」

 「クリーブランド・インディアンズはどうかな」

 「ヤンキースに忠誠を誓いな。偉大なディマジオのことを考えな」

 「デトロイト・タイガースとクリーブランド・インディアンズのことが気になるよ」

 「シンシナティ・レッズとシカゴ・ホワイトソックスを気にしな」

 「予想していてよ。おいらが戻ったら、話を聞かせてよ」

 「85の数字が付いたロトを買うのはどうかな? 明日は八十五日目だ」

 少年は言った。

 「いいと思うよ。でも、あんたの最長記録は八十七だろ?」

 「二度とは起きないさ。あんたは85を見つけられるか?」

 「一枚買うよ」

 「一シートだよ。二ドル五十セントだ。だれがカネ貸してくれるかな?」

 「簡単さ。おいらはいつでも二ドル五十セント借りている」

 「わしも借りられると思う。でも、わしは借りない。まずはあんたが借りな」

 少年は言った。

 「暖かくしておきな。今は九月だよ」

 老人は言った。

 「九月は大物が来る。五月は入れ食いさ」

 少年は言った。

 「イワシを捕りに行ってくるよ」

 少年が戻ると、老人は椅子で寝ていた。日は落ちていた。少年はベッドから毛布を取って、椅子の後ろで広げて、老人の肩にかけた。不思議な肩だった。年老いているが力強い。首も頑丈でしわは目立たなかった。老人は前かがみになって寝ていた。老人のシャツはつぎ当てがたくさんあった。それは帆のようだった。つぎ当ては太陽の光で色あせて、さまざまな陰影があった。老人の髪は真っ白で、目は閉じられていた。顔には生気がなかった。新聞が膝の上に乗っていて、その上に腕があった。夕方のそよ風が吹いていた。足は裸足だった。
 老人を寝かせておいて外へ出て、戻っても、老人はまだ寝ていた。少年は手を片方の膝に当てて言った。

 「起きてよ」

 老人は目を開けた。しばらく、ぼうっとしていたが、笑って、尋ねた。

 「何だい?」

 少年は言った。

 「夕食だよ。夕食にしようよ」

 「わしはあまり腹が空いていない」

 「食べなよ。食べないと漁に出れないよ」

 老人は起き上がって、新聞を折りたたんで、言った。

 「食べるよ」

 そして、毛布をたたんだ。

 少年は言った。

 「毛布を巻いていなよ。おいらが生きている限り、食べさせるよ」

 老人は言った。

 「じゃ、体に気を付けて、長生きしてくれ。何を食べるんだい?」

 「黒豆とご飯。揚げたバナナに、シチューだよ」

 少年は食べ物が入った模様付きの金属の容器をテラスから持ってきた。紙のナプキンでくるんだナイフとフォークとスプーンを二組ポケットに入れてきた。

 「だれがくれたんだい?」

 「テラスのマーチンだよ」

 「礼を言わないとな」

 少年は言った。

 「僕が言ったよ。あんたは言わなくてもいいよ」

 老人は言った。

 「じゃ、マーチンに大物の腹の身をあげよう。また、くれるかな?」

 「そう思うよ」

 「そしたら、腹の身に何かを付けてあげないとな。マーチンはとてもよくしてくれる」

 「マーチンはビールもくれた」

 「わしは缶ビールが好きだ」

 「知っているよ。でも、これは瓶ビールだよ。アトゥエイだよ。後で瓶を返すよ」

 老人は言った。

 「ご苦労さん。食べなくちゃな?」

 少年は優しく言った。

 「あんたは食べなくちゃ。あんたの準備ができたら開けるよ」

 老人は言った。

 「準備はできているよ。手を洗わなくっちゃ」

 どこで手を洗うのかなと少年は思った。村の水道は道をふたつ降りなくてはならない。僕が水を持ってこなくちゃいけないかなと少年は思った。それに、石鹸とタオルも。僕は考えが足りないな? 冬物のシャツと上着も用意しなきゃ。靴と毛布も。

 老人は言った。

 「シチューはとてもうまい」

 少年は言った。

 「野球のことを話してよ」

 老人はうれしそうに言った。

 「アメリカンリーグはヤンキースだよ」

 少年は言った。
 「ヤンキースは今日は負けた」

 「どうでも良いさ。偉大なディマジオがいるだろ」

 「ヤンキースにはほかの選手もいるよ」

 「もちろん。だが、ディマジオは別格さ。ナショナルリーグでは、ブルックリンとフィラデルフィアなら、ブルックリンを取る。ディック・シスラーだよ。ふたりはホームランバッターだよ」

 「ふたりのような選手は見たことがないよ。シスラーはもっともでかいのを打った」

 「シスラーがテラスによく来ていたのを覚えているかい? シスラーを漁に連れていきたかったが、わしは気が小さいので、言えなかった。だから、あんたに頼んだが、あんたも気が小さかった」

 「覚えているよ。失敗だったね。シスラーはおいらといっしょに漁に出たかもしれない。そしたら、一生の思い出になったのにね」

 老人は言った。

 「わしは、ディマジオを漁に連れていきたい。ディマジオの親父も漁師だったそうだ。おそらく、ディマジオもわしらと同じくらい貧乏だったはずさ」

 「シスラーの父ちゃんは貧乏じゃなかった。シスラーがおいらの歳の頃、父ちゃんは大リーグでプレーしていた」

 「わしはあんたの年ごろには、アフリカへ向かう角型の船のマストの前にいた。わしは晩には海岸にいるライオンの夢を見る」

 「知っているよ。あんたが言っていた」

 「アフリカのことを話すかい? それとも野球のことかい?」

 少年は言った。

 「野球のことがいいよ。ジョン・ジェイ・マグローのことを話してよ」

 少年はヨゼフのことをジェイと言った。

 「昔、マグローはテラスにときどき来た。でも、マグローは飲むと、乱暴で口汚く難しかった。マグローは野球と同じくらい競馬が好きだった。いつもポケットに馬の出走表を入れていて、よく電話で馬の名前を言っていた」

 少年は言った。

 「マグローは立派な監督だった。僕の親父はマグローが最高だと思っている」

 老人は言った。

 「マグローはここによく来てたからな。ドローチャーが毎年、来ていたら、あんたの親父はドローチャーが最高だと思うさ」

 「だれが、最高の監督かな?ルケかな、マイク・ゴンザレスかな?」

 「甲乙つけられないとわしは思う」

 「最高の漁師はあんただよ」

 「いいや、他の漁師さ」

 少年は言った。

 「とんでもないよ。立派な漁師はたくさんいる。中には凄いのもいる、でも、あんたが一番だよ」

 「ありがとうさん。あんたはわしを喜ばす。わしらの間違いを示す大物が現れなければ良いが」

 「そんな大物はいないよ。あんたはまだ強いよ」

 老人は言った。

 「わしは思っているほどは強くはないかもしれない。でも、わしはたくさんの仕掛けを知っているし、不屈の精神もある」

 「早く寝たほうがいいよ。明日の朝は元気になるよ。おいらはテラスから食べ物を持ってくるよ」

 「おやすみ。明日の朝、あんたを起こすよ」

 少年は言った。

 「あんたはおいらの目覚まし時計だよ」

 老人は言った。

 「年寄りは早く目が覚める」

 「年寄りは何で早起きなんだろう? 一日が長い」

 少年は言った。

 「僕には分からない。僕に分かることは、少年はたくさん寝る必要があるということだけだよ」

 老人は言った。

 「そうだよな。あんたを起こしに行くよ」

 「親父に起こされるのは嫌だよ。最低だよ」

 「知っているさ」

 「ぐっすり寝てね」

 少年は出ていった。食事の時は、食卓に明かりをともさなかった。老人はズボンを脱いで暗がりのベッドに入った。ズボンを丸めて、間に新聞をはさんで、枕にした。ベッドのスプリングの上に新聞を敷いて、毛布にくるまって寝た。
 老人はすぐに眠った。子供の頃のアフリカの夢を見た。きらきら輝く白いビーチはまぶしくて目が痛くなる。小高い岬と茶色の山も見えた。老人は毎晩その海岸の夢を見た。波の唸り声を聞いて、地元民の舟が波間を行き交いするのを見た。デッキのあかどめのタールが匂った。朝の陸風に乗ってくるアフリカの匂いを感じた。
 陸風の匂いを感じるといつも目が覚めた。そして、服を着て少年を起こしに行った。だが、その夜は陸風がとても早く吹いた。早すぎることは分かっていたが、夢を見続けて海の中の島々の白い頂を見た。そして、カナリヤ諸島のいろいろな港の夢を見た。
 老人は、もはや、嵐や女や大きな出来事や巨大な魚や喧嘩や力比べや妻の夢は見なかった。アフリカと海岸にいるライオンの夢だけを見た。ライオンは黄昏の中で遊ぶ子猫のようだった。老人は少年と同じくらいライオンを愛した。老人は少年の夢は見なかった。ただ起きて、月明かり下でドアを開けて、丸めたズボンを伸ばして履いた。老人は小屋の外で立小便をして坂を上って少年を起こしに行った。老人は朝の寒さで震えたが、まもなく舟を出すので暖かくなって身震いすることは知っていた。
 少年の家のドアには鍵がかかっていなかった。老人はドアを開けて裸足のまま静かに中に入った。少年は手前の部屋のベッドで寝ていた。沈みかけている月の光で少年の姿がはっきりと見えた。老人は少年が起きるまで少年の片方の足を優しくつかんで、少年を見ていた。老人はうなづいた。少年はベッドの脇の椅子からズボンを取って履いた。
 老人はドアから外へ出た。少年はその後をついて行った。少年は眠かった。老人は少年の肩に腕を回して言った。

 「ごめんよ」

 少年は言った。

 「何でもないよ。あんたの仕事だからね」

 ふたりは老人の小屋へ降りていった。道は暗かったが、ふたりは裸足で歩いて舟のマストを運んだ。小屋に着くと少年は釣り糸が入った箱とモリと魚かぎを持った。老人は帆が巻き付いたマストを肩に担いで運んだ。

 少年が尋ねた。

 「コーヒーは要らない?」

 「道具を舟に積んで、コーヒーを飲もう」

 早朝に漁師が集まる場所でふたりはコンデンスミルクの缶に入ったコーヒーを飲んだ。

 少年は尋ねた。

 「良く寝れた?」

 少年はすっかり目が覚めていた。目が覚めるまで時間がかかるけれども。

 老人は言った。

 「良く寝れたよ、マノリン。わしは今日は自信がある」

 少年は言った。

 「そうさ。さあ、イワシを持ってこなくちゃ。おいらとあんたの新鮮なエサ。親方は自分で道具を運ぶ。だれにも手伝わせない」

 老人は言った。

 「わしらは違うさ。あんたが五歳の時から道具を運ばせた」

 少年は言った。

 「覚えているよ。すぐに戻るよ。コーヒーをもう一杯飲みなよ。ここはつけが効く」

 少年は裸足で珊瑚の道を歩いてエサが置いてある保冷庫へ行った。 
 老人はゆっくりとコーヒーを飲んだ。食事はコーヒーだけだった。だがコーヒーは飲まなければならなかった。今は食べるのはうんざりする。弁当は持って行かなかった。舟のへさきに水筒を置いていた。その日はそれだけだった。
 少年がイワシを持って戻った。新聞紙に二匹包んであった。ふたりは道を下って舟へ向かった。足に砂利を感じた。舟を抱えて海に入れた。

 「幸運を」

 老人は言った。

 「幸運を」

 かい座ピンにオールの綱を合わせた。そして、波頭に逆らって前へ進んだ。老人は暗闇の中を港から出て漕ぎ始めた。他の岸から出た舟もいた。オールが水をかく音が聞こえた。オールは見えなかった。今は月が丘の下に見えた。
 時には舟で話すものもいる。だが、たいていの舟はオールの音以外は聞こえない。舟は港の入り口から出た後、分かれて行った。各々の舟は魚が見つかりそうなポイントに向かった。老人はずっと沖へ出て行こうと思っていた。背後には陸の匂いが残っていた。そして、早朝の新鮮な匂いがする海へ漕いで行った。漁師が偉大な地点と呼ぶ上を漕いでいると海藻の燐光が見えた。そこは急に深くなって七百尋の深さがある。そこでは潮が渦を巻いていて、あらゆる魚が集まっている。大陸棚の急な壁に向かって潮が流れて渦ができる。そこにはエビや小魚が集まっている。深みの穴にはイカの群れもいて夜には水面に上がってくる。これらが、いろんな魚のエサになっている。
 暗がりの中で、老人は夜が明けるのを感じながら漕いだ。左手にトビウオが飛ぶ音が聞こえた。まっすぐな翼が立てる風きり音だった。トビウオは暗がりの中で飛行した。老人はトビウオがとても好きだった。トビウオは海の主要な友人だった。老人は鳥は気の毒に思った。とくに小さくて華奢な黒いアジサシは気の毒に思った。いつもエサを探し回っているが、なかなか見つけられない。大きくて強い泥棒鳥以外は、人よりも生きるのが厳しいと老人は思った。海ツバメのような華奢で綺麗な鳥にとって、海はとても残酷ではないだろうか? 海は親切で美しい。だが、海は突然とても残酷にもなる。鳥は海に潜って漁をする。その小さな悲しい声は海に対してあまりにも弱すぎる。
 老人はスペイン語でラ・マールと言う海のことをいつも考えていた。人びとは海を愛している。ときには、海を悪者のように言う者もいる。海はまるで女のようだと彼らは言う。エンジン付きの舟を持ってブイを使う若手の漁師もいる。彼らは海のことを雄々しいエル・マールと呼ぶ。サメの肝臓はたくさんの稼ぎになる。彼らは海を競争相手、あるいは敵だと言う。だが、老人は海のことを大いなる恵みをもたらす女性だと思っていた。海が荒々しくて邪悪であっても、海はそうせざるを得ないだけだと思っていた。月は海に影響を及ぼすが、それは女を扱うようなものだと老人は思っていた。
 老人は堅実に漕いでいた。老人には苦労はなかった。潮目の渦以外は海は平らだったので十分に速度を保っていた。潮流に乗るのが三番目の仕事だった。潮流は緩くなっていた。その時間には思っていたよりも沖へ出ていた。
 一週間どん底だった。何もしなかったと老人は思った。今日はカツオとビンナガがいるポイントまで来た。ここには大物がいるはずだ。
 潮流が完全に緩くなる前に、老人はエサを取って、流した。ひとつめの仕掛けは四十尋、ふたつめは七十五尋、みっつめとよっつめは百尋と百二十五尋に落とした。エサの魚は針の付け根から軸の部分にきっちりと付けた。針の先には新鮮なイワシを付けた。針はイワシの両目を通して付けたので針の軸のところで花飾りのようになっていた。大物が針全体で甘い匂いと美味しい味を感じるようにした。
 少年は老人に新鮮な二匹のビンナガを手渡していた。これらは、重りのように釣り糸にぶら下がっていた。他の釣り糸には、前に使ったシマアジを付けていたが、シマアジの状態はまだ良かった。そして新鮮なイワシが良い香りと味を醸し出していた。鉛筆くらいの太さの釣り糸は釣り竿に付けていた。エサに当たりがあると釣り竿がたわむ。釣り糸は四十尋に二巻きしていて、さらに余分の釣り糸があった。場合によれば、魚は釣り糸を三百尋以上も引っ張る。
 老人は舟の脇に取り付けた三本の竿のたわみを見ていた。そして、釣り糸を適切な深さに保つようにゆっくりと漕いだ。明るくなった。もう陽が昇るだろう。
 
 

 

青柳洋介

略歴

1956年生まれ。1981年、東京大学卒。20年間の電機メイカー勤務を経て、2004年に独立開業。

クリエイター

http://ayosuke-cosmos.blogspot.jp/

バードマン社

http://birdman-ao.blogspot.jp/

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