2011年4月15日金曜日

ルイ13世? ルイ15世?

フランス国王ルイが言った@歴史の教科書

"Apres moi, le deluge"

http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080222/p1


<注記1>“Apres moi le deluge!”は、偉大な曽祖父であった太陽王ルイ14世と比べ“国家資産蕩尽”王と呼ばれたルイ15世の名言。その意味するところは「あとは野となれ山となれ!」、つまり「無責任なケ・セラ・セラ」のこと(画像はウイキメディアより/左ルイ14世、右ルイ15世)。具体的に言えば、ルイ15世は、ポンパドウール夫人を始め“多く”の愛人らとウツツをぬかす間に海外での英国との覇権闘争に敗れインドカナダなど“多く”の植民地国益)を失った。


在位中にフランス革命(1789年-)が起こり、1792年に王権が停止され、翌年処刑された。フランス最後の絶対君主にしてフランス最初の立憲君主である。1791年憲法に宣誓して以後は、称号は「フランス国王」ではなく「フランス人の王」となる。

評価 [編集]

斬首後、革命派によって民衆に示されるルイ16世の首
同じく民衆に示されるルイ16世の首
ルイ16世は「狩猟錠前造りが趣味で妻マリー・アントワネットに操られる無能な王」、「国民の境遇に心を悩ませる心優しい王」という2つの相反する評価を受ける。とくにシュテファン・ツヴァイクの伝記小説『マリー・アントワネット』においてルイ16世を暗君として描いたイメージが広く知れ渡っている。現代のフランスでもニコラ・サルコジ大統領が「私は宮殿で錠前作りに明け暮れる暗君のようにはならない」とルイ16世を無能な政治家の譬えとして発言している。一方、2008年にジャン=クリスチャン・プティフィスが『ルイ十六世』で彼の政策を膨大な史料を元に紹介したところ、ドミニク・ガルゾー・ド・ビルパン元外相などフランスの政治家が同書を取り上げ、ルイ16世を高く評価した。
当時のフランス国民(パリ市民)にヴァレンヌ事件までは絶大な人気を得ていた。当時の財政難はルイ14世とルイ15世の放漫財政も一因であり、財政再建のための改革にルイは積極姿勢を示したが、途中で挫折した。
ルイ16世は、国民の良き支配者、理想的な国王を目指した啓蒙専制君主であった。農奴制の廃止、プロテスタントやユダヤ人の同化政策などをすすめ、科学や地理探検にも理解があり、その支援者であった。さらに三部会召集も第三身分をもって第一身分、第二身分の特権を突き崩そうとしたものであった[17]。当時、マリー・アントワネットが数々のスキャンダルで世間を騒がせていたにも拘わらず、国王の威信が地に堕ちるということはなかった。人々は良き王の統治を求め、実際1789年の三部会開催に際し寄せられた数々の意見は、良き王への陳情という形式がとられていた。
「のちに革命への対応に失敗したからといって、さかのぼって無能の烙印を押すことは避けたほうがよい。とくに欠陥のある国王というわけではなかったろう。ただ、変動期に決断をせまられたときに、強力な指導力を発揮できるような人ではなかった。政治感覚がひどく鈍かったわけではないが、ありていにいえば優柔不断だったのである。」(福井憲彦
後のロシア革命に直面したニコライ2世と同様に、平穏な時代であれば国王としては平凡な人生を送れたかもしれないが、革命という動乱の時代に国王となってしまったことが悲劇であったとも言える。


ルイ16世
Louis XVI
フランス国王 (その他)
ルイ16世

戴冠1775年6月11日、於ランス・ノートルダム大聖堂
先代ルイ15世
次代ルイ17世

先代ルイ15世

出生1754年8月23日
 フランスヴェルサイユヴェルサイユ宮殿
死亡1793年1月21日(満38歳没)
 フランスパリコンコルド広場
埋葬1815年1月21日
フランスサン=ドニサン=ドニ大聖堂
実名Louis-Auguste
ルイ=オーギュスト
王室ブルボン家
父親ルイ・フェルディナン・ド・フランス
母親マリー=ジョゼフ・ド・サクス
王妃マリー・アントワネット
子女
居所ヴェルサイユ宮殿
テュイルリー宮殿
信仰キリスト教カトリック教会




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