2013年12月24日火曜日

皇国史観

小泉首相が、一月六日伊勢神宮に参拝、翌日付産経新聞のコラムでは「日本は神々の国である」と括り、同月十四日には、内外の反発を受けながらも靖国神社に参拝したのは記憶に新しい。


そして建国記念日の二月十一日には、「政府後援の式典は神武創業の意義に触れていない」として、独自の行事を開いている神社本庁や日本の建国を祝う会(会長拓殖大総長)等をはじめ、各地で紀元節の奉祝式典が執り行われた。祝日法により「建国を偲び、国を愛する心を養う」とした、意義のある記念すべき日だったのである。


過去に於いて、日本人は神道指令による伝統的信仰心の破壊行為ともゆうべき苦汁を舐めはしたが、我が国固有の神祇信仰は、古来より受け継がれ、現世に於いても日本人の精神の支柱として根付いているのである。この様に人々の生活に密着した「神」を抜きにして、我が国の歴史、伝統、文化の形成はあり得ず、その神道的思想が、政治・道徳・宗教或いは芸術等の面でも、多大な影響を及ぼして来た事は周知のとおりである。

そこで、八百万の「神」観念を展開するにあたり、神道的歴史観やこれに内在する思想史・政治観念の考察を試みたい。「神」について本居宣長は、古典にみえる天地の諸神をはじめ、それを祀った社の霊の事で、人はいうまでもなく鳥獣木草の類、海山その他を含む「尋常ならずすぐれたる徳のありて、可畏き物」(古事記伝)と定義した。また、神国の意識は日本書紀に既に見られ、神道五部書といわれる「倭姫命世記」「宝基本記」等々、それ以後の古典文献にも数多く記されているが、蒙古来襲の過程に於いて、神国思想は高揚されていくのである。

中世における皇国史観

南朝の柱石北畠親房は、中世二大史論といわれるその著作【神皇正統記】に、「大日本者神国也。天祖ハジメテ基ヲヒラキ、日神ナガク統ヲ伝給フ。此国ノミ此事アリ。」と特筆している。「正統記を以て国体学史上空前の境地を開拓せしもの」と評価に代表される様に、国体明徴へと導く布石の一つとして研究、提唱されていくのである。


親房は伊勢神道の影響を受けながらも独自の神道思想を形成していく。当時流行の末法思想や百王説というような時代下降史観への批判と、神道儒仏に対する自主性の確立、天壌無窮の国家的自覚の展開、更には、三種神器論の形成に至る。そして、後の山鹿素行(中朝事実)、頼山陽(日本外史)や大日本史編纂の際には、この「神典」ともいうべき正統記の思想が根底に存在しているのである。


南北朝対立という歴史的背景の中、その著者親房は、どの様に神国思想を關明したのか、その思想的営為を概観する。親房は、神代の記述に当たり「神道のことはたやすくあらはさずと云うことあれど、根元をしらざれば、猥しき始ともなりぬべし」と記している。すなわち、神代にあらゆるものの根元的意義を認めているのである。そして、上古、中古、末世と分けられた各時代の歴史的位置づけに於いては、神武天皇条で「其制度天上の儀の如し」「神代の例に異ならず」と、上古と神代を連続的にとらえている。


中古については天孫降臨に際し、「此中にも中臣、忌部の二神はむねと神勅をうけて、皇孫をたすけまぼり給」と記し、更にこれに基づいて別な箇所で「我国は神代よりの誓にて、君は天照太神の御すゑ国をたもち、臣は天児屋の御流君をたすけ奉るべき器となれり」と述べている。この様に、天児屋の子孫が天皇を輔佐すべき事は、神代に定まった原理とされ、中古以前においても、歴史はその原則を実現していたものとして捉えられているのである。


光孝期以後に於いて、摂関政治とゆう体制を執ったとしても、新しい原理に基づいた、それ故に歴史に転換点をつくる様な現象では決して無かったということができる。それでは前述の神代とはいかなるものであり、後代の歴史に対しどのような影響を及ぼしていくのであろうか。神代に於ける神々の行為の中で、其の意志を集約的に示し、後代の歴史展開に最も重要な意義をもつのは、天孫降臨の際の天照太神による神勅及び神器の授与である。


これについて、神孫為君・宝祚無窮・神器永遠等を後世に保証し、その原則を後の歴史に発現させてゆくものと記されている。ここで、「古事記」「日本書紀」の神代条のイザナギ・イザナキ二神による国土生成・産出が起想されるが、この神代に存した事実を以て、この世は神孫が君臨すべき事、民が神孫を君として仰ぎ奉仕すべき事を説いている。そして、この神々による世界創成説を理念として、日本独自の神道論や政治論・道徳論を全世界に通用すべきものとして説いた典型例が、周知のように平田篤胤であった。


後に譲るが、慈遍の右に観た達成は、篤胤に先行する事およそ五百年である。また、建武中興や織田、豊臣の天下統一、そして徳川政権の衰退、明治維新等々の歴史を回顧するに当たり、政治的社会構成が大きく変化する過程では、必ずといっていいほど「記紀」思想は復古するのである。近世にあっては、帝国憲法・教育勅語により明確な表現を得、国体の本義等の公布を経ていく。


当時の東京帝国大学で、憲法学を講じていた学者穂積八束は、国民教育憲法体系で「我が国体国初以来未だ嘗て之を変更したることなく三千年の久しきに亘り時に(中略)国体の変更は帝国の滅亡なり」と述べ、同じく筧克彦は、「古事記」に依拠しながら思弁を展開し、「国教たり世界教たり万邦の精華」であり、唯一の真理、唯一の活生命、唯一の神を信ずる「古神道」、つまり「随神道」を唱え「天皇は、大愛大智大意志を統括せれつつある大創成大生成作用を表現せられ、人間向上の大生命を実現せられつつある御方あることは疑いない」と喝破するのである。


かくて、神勅による神意は超人為的側面の為す根底的作用をもたらし、神器の授与にあたっては、親房独自の解釈を加えている。すなわち、鏡を「正直の本源」、玉を「慈悲の本源」、剣を「知恵の本源」也とし、「神は人をやすくするを本誓とす。天下の万民は神物なり」に始まる神意的道徳の三徳(神の御心)を発現するに至る。この政道論は、伝統思想を承継する神孫為君説の枠内で、君徳安民の政道論を包摂せしめたのである。


鎌倉時代以降の武士政権が、儒教的徳治主義によって、その存立を正当化するに至るが、これらの歴史的事実について親房は、頼朝の政権が、院政の乱れにより「天下の民」が塗炭の苦しみに落ちた非常時に成立して、皇室と万民を安じ世を復したとその功績を称える。また、北条執権政治の確立・存続という現実については、泰時の善政・安民の実績を称えて、「将来の鑑誡とせねばならない」とし、先に観た神意の道徳意志・「祖神の御意」による政道論によって、武士政権の成立と存続とを意義づけている。


ところが、これらの歴史的事実も、「陪臣として久しく権をとることは和漢両朝に先例なし」「終にはなどか皇化に不レ順べき」と、それを一時的或いは不完全な政権とみなし、「更に人力といひがたし」「宗廟の御はからひも時節ありけり」と、神孫為君・藤原氏輔佐を基盤とする政体論によって、鎌倉武士政権の滅亡の中に神の作用を観ている。まさに南朝に対抗しつつある足利政権の必然的滅亡を予言するのである。


また、「我国は神明の誓いちじるしくして、上下の分定まれり」と、武士は分を守って政治を助ける事が肝要で、上下の分を明らかにして乱れないところに神国たる所以をみる。すなわち、神聖不可侵性である伝統的諸観念を貫く親房の理想は、朝廷と武士とは神代に由来する絶対的な上下の関係に秩序づけられるのである。ここで、三種の神器である剣が武勇の象徴では無く、剛利決断を徳とする知恵の本源をなすのものである事を加えねばなるまい。


一方、同時代の歴史書として、これら「正統記」の史観と対照的なのが、「梅松論」である。この著者は、武士の決起から朝廷の敗北と、後鳥羽上皇など三上皇の配流に至る承久の乱の顛末を、徳治論の立場から当然の様に捉えている。かかる徳治論は、「有徳者執政者論」とゆう観点から歴史的意義づけがなされ、儒教に於いての、革命思想を含んだ有徳者為君説が導かれるのである。


右の議論を根拠に、「近臣(中略)非儀を申断」じ「綸言朝に変じ暮に改」まる建武新政府を批判し、これを瓦解させた尊氏について、挙兵は「天下の御為」を計るものと記し、その政権獲得については「天道は慈悲と賢聖を加護すなれば」云々と結び、後醍醐天皇に弓引く尊氏の反逆と、室町政権の樹立を全面的に正当化しているのである。そして尊氏や直義を単なる武将としてでなく、日本の治者として扱い、更には、周の王朝にも優越する政権と賛美している。こうして、「梅松論」に基づく道徳史観は、公家から武家への政権移行、ひいては徳川政権存立の正当性を理論的に根拠づける機能を果たしていくのである。


当然、室町政権の基本方針を表明した「建武式目」においても、先に略述した如く儒教的徳治思想を積極的に摂取し、その存立を合理づけている事は言うまでもない。しかしながら、この「徳治」なる言葉に示されるが如く、私的倫理と相関し、為政者の道徳が規範主義に転嫁されるのであって、政治そのものは極めて消極的な意味でしかあり得ないであろう。この室町政権が形式的にも北朝を上にいただく体制であった歴史的事実は、その帰結の現れに外ならない。それでは、時を同じく南朝政権を支持した特異な神道思想家「慈遍」に着目してみると、古代以来の神祇官僚家ト部氏の出で、「徒然草」の著者兼良好の兄と伝える。


その著書「旧事本紀玄義」「豊葦原神風和記」「要記」等から、宗教観、国家観にある核心は、神本仏迹・反本地垂迹説の神道思想にあると言えるが、親房のそれに劣らぬ史的意義をもつことは確かである。彼は、神の教えに従って正直・清浄の徳を宗とすべきであると記し、皇孫・天皇は、神意を受けて地上世界全体の主であって、広く天・地・人の三才の運行責務があると説く。太古には、日本・シナ・インド(=全世界)は、等しく普遍的な「心霊の徳」により成立せしめられたとし、日本の神、インドの仏、シナの孔子・老子の順で、その優劣を論じている。


もっとも、仏教・儒教を排斥している訳では無く、正直・清浄に基づく政が、仏教の慈悲に基づく政と儒教の仁政に重なる所があると観ていたことは否定出来ない。穢悪の心を持ち自在力を失った人たちに適合した教えが仏教であり、神の計らいによって、普遍的な救済力をそなえ、しかも仏に教導されて得た成果等、高く評価する見地が顕著にみられる。親房にあっても、神主仏従の見地から儒仏は仮の神聖の一つであって、神道を広め深くするための働きはあったと受け止め、更には、いずれの教えに対しても公平に、広く諸宗のよい所を学ばれる必要があると寛大に説いている。これらの点については、伊勢神道書の排仏的思想と明確に相違するところである。

亡国への教導者 日蓮

かくて、欽明天皇十年に仏教伝来をみるが、平安旧仏教に対し鎌倉新仏教の始祖たちは、仏を至高・至尊と仰ぐ見地から、仏法は王法に優越する仏法為本の立場を堅持している。親鸞・道元が王者不拝論を説き、日蓮もまた、世界は全て釈迦の所有であるとゆう釈尊御領観から、君主は釈尊に対して仏法に基づく政を施す責務があると提唱しているのである。


その歴史観についても、像法時の末から末法時の初めにかけて、仏法・王法両界において謗法が累積し、仏の治罰の対象になり、承久の乱における公家の敗北さらには王法の滅亡をもたらした事、この乱により政権が北条氏に移行してからも、謗法が乱前より増して、ついに仏の計らいによる蒙古の来襲を経て、国家滅亡を招くとされること、その後は、正法である法華経広布の世が来ると確信している。彼の世界観においては、釈迦一仏のみが衆生にとって親であり、師・主であると述べる。また、世界は釈迦の領土であって、神・王その属する者全てが釈迦の所従であり、あらゆる自然物もその所有物だとするのである。


つまり、仏法の前では、世間の道徳や法律等も無価値化され、国・神をもその仏教的秩序の中に組み込まれる。ところで、日蓮が邪教・邪宗として糾弾して止まなかったのは、法然・浄土宗だけでは無かった。その言動は、当代的自覚の強烈さから法華経の正法に基づけようと、立教開宗の当初から同時代の他の新興仏教を意識し、それを破却せんばかりの勢いであった。ただ、その激しさの割には、断固として法華経に基づくという以外に、客観的な根拠がある訳でも無く、絶対主義的支配を標榜する狂信的宗教家と言わざるを得ない。


また、民衆の現実の難に対しその教義を説く様は、社会・共産主義者による貧民の蜂起の煽動をも連想させる。

日本人のあるべき姿

親房は、天照太神の恩により稲種が世に伝わり、命の糧となる稲、水その他に対し皇恩・神徳と感謝する。「あるにまかせて」「不正に飲食」しては為らず、それは社会に於いても通じる基本的な考えだと説く。天地万物に対しても「これを敬うべし」と後代の人々に提示するのである。何気ない生の営みの中に、日本民族祖先以来の生活原理をみるのであり、神を尊ぶことによって、生の尊さを知るのである。日本人は神道に対し、無意識にではあるが、密接な関わりを持っている。


初詣を始め、商売繁盛・家内安全等の祈願、お祭り、七五三、結婚式、地鎮祭その他神事芸能まで、伝統的儀礼・儀式は後を絶えない。敬神崇祖尊皇は、精神文化発祥の原点をなすものと言えよう。神国に生まれ育った以上、私達の心に根付いて離れない「清き直き心」を大切にし、西洋的個人主義が横行する風潮の中で共同体の繁栄や平穏を祈る等、今こそ、これら神道的倫理を起想すべきではないか。神道とは、教へに非ず、我々が歩むべき「道」なのである。

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