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2015年9月5日土曜日

力道山@パナソニック革命

プロレスファンですか?

プロレスと言えば、力道山です!

力道山(りきどうざん、朝鮮語:역도산(ヨットサン、Yeokdosan / Yŏktosan)、朝鮮文化語:력도산(リョットサン、Ryeokdosan / Ryŏktosan)、1924年11月14日 - 1963年12月15日)は、日本のプロレスラー。本名・戸籍名・日本名:百田 光浩(ももた みつひろ)、旧名・出生名・朝鮮名:金 信洛(きん・しんらく、キム・シルラク、김신락(Gim Sinrak / Kim Sinrak))。大相撲の力士出身。身長176cm(プロレス時代の公称身長は180cm)、体重116kg。

生い立ち[編集]
日本統治時代の朝鮮・咸鏡南道洪原郡新豊里(現在の北朝鮮統治範囲)で現地人の両親のもとに生まれた。

性格的には粗暴で、感情の起伏が激しかった。機嫌が良いときはボーイに1万円札で[21]チップを渡すこともあったが、機嫌が悪いと飲食店での暴力沙汰は日常茶飯事であり、そのつど金で表ざたになるのを防いだ。1957年(昭和32年)10月18日の『読売新聞』朝刊や、同年12月5日の『朝日新聞』夕刊に「力道山また暴れる」と報道されたこともあった[22]。
可愛がられたという張本勲は、飲むと暴れて大きな手で木やガラスのテーブルを叩いて割る、薄いガラスのコップを美味しいと言って食べていた、などと話している[23]。粗暴な行為に関しては、本人の生来の激高しやすい性格も一因ではあるが、晩年には肉体的な衰えをカバーするために試合前に興奮剤を服用しており、試合後にそのまま飲み屋に出かけて行ったため、トラブルを引き起こしたという証言もある。

このような粗暴な性格のため、多数のトラブルを引き起こしている。例をあげると山口組ともめて監禁寸前にまでなったり、安藤組に対して誠実な対応を取らなかったため付け回され家に帰れなくなったり、フィリピンマフィアの顔役を橋から川に投げ込み揉めるなど、当時のプロレス興行が暴力団と密接な関係にあるにもかかわらず、配慮に欠けた行動を繰り返したため、命を狙われることも多かった。上記の1963年12月8日の赤坂での刃傷事件(これが死の遠因となった)で見られるように、力道山には飲酒した時のトラブルが多かったようで、暴力団山口組三代目組長の田岡一雄は「(力道山は)酒を飲まなければ……」と自伝で嘆いている。
力道山本人も自身の性格がよくわかっていたのか、猟銃を合法的に数丁所持し、また妻の自伝によると拳銃まで所持していたという。


怪我をしてもすぐ出血が止まる体質だったようで、「額を割って血を流しても、ものの10分もすると赤チンをつけただけで血も出ていない」「骨が見えるぐらいの傷なのにすぐ血が止まる」と剱持松二が証言している[26]。リキパレスでプロレスの試合が終わると、怪我したままの状態で「(リキパレスの別フロアのレストランで)『今日はひどかったねえ』なんて話をしながら(酒を)飲んでいる」というのが日常だった[26]。
自身を含めたプロレスラーの強靱な肉体に過信があったことは事実であり、客人の前で馬場に度数の高い洋酒を一気飲みさせたり、猪木を走行中の自動車から突き落としたりして、「強靱な肉体があるからプロレスラーはケロっとしている」というアピールを好んで行った。
また、相手を威嚇するためにガラスのコップをバリバリと噛み砕いて飲み込む「人間ポンプ」という芸を持っており、ごく機嫌のいい時か悪い時に披露したという。
大きいイメージを持たせるため、実際より4cm身長をサバ読みした。それによりその世代のレスラーは4cmサバ読みしていることが多い。


力道山の死後プロレス界を支えた両巨頭であるジャイアント馬場、アントニオ猪木も彼の弟子であった。力道山は、プロ野球出身で知名度もあり、肉体的に恵まれていた馬場をスター候補としてデビュー当時より特別扱いしていたが、猪木への対応は「靴べらで顔を殴る」「飼い犬を番犬として教育する際の実験台にする」「少年の猪木に一升瓶の日本酒を一気飲みさせる」「意味もなくゴルフクラブをフルスイングして側頭部を殴打する」「灰皿を投げつける」など、極めて冷酷なものであったと言われている(猪木自身が一部語り、古いスポーツ紙の記者もそれを書いている。近年でも、当時は本気で殺意を覚えたと語る事も)。その一方で、弟子の中で、力道山が本心から一番可愛がっていたのは馬場でも猪木でもなく、同じ朝鮮民族出身の大木金太郎であったともいう。
可愛がっていたジャイアント馬場にさえも、トレーニングで弱気な発言をしても我慢を強要するなど、横暴な一面があったが、それでも弟子の教育に合理的な面があったようで、一度目のアメリカ武者修行で大成していた馬場が、アメリカ側から催促されていた時に、「お前だけすぐにアメリカに出したら周りの奴に妬まれる」と時間を置いて出発させたという馬場自身の証言があり、まだ付き人だった猪木には「ウェイトが100キロを超したら武者修行に出してやる」と約束していたという。結局、力道山の生前には猪木のアメリカ修行は無かった。


実業家としても成功し、赤坂に自らの住居も兼ねた高級アパートの「リキ・アパート」、ナイトクラブの「クラブ・リキ」、さらに「リキマンション」と名づけたマンションの奔りである高級賃貸住宅を建てた。1973年に自殺した俳優の大辻伺郎も晩年にこの「リキマンション」に住んでいた。
渋谷には「リキ・スポーツパレス」という地上9階建てのプロレスの常設会場を作り、その中には「リキトルコ」[31]やビリヤード場、ボウリング場などを併設した「リキレストラン」を建設した。ボクシングジム経営にも進出している。
死の少し前には、相模湖畔に、自動車レース場・射撃場・室内スケートリンク・モーテル等レジャー施設を併設した大規模なゴルフ場、「レイクサイド・カントリークラブ」の建設を始めていた。広大な土地を購入し、会員権を販売し、一部工事にも取りかかったが、死去により未完に終わった。跡地は売却されて、現在、さがみ湖リゾート プレジャーフォレスト(旧称・さがみ湖ピクニックランド)となっている。また、三浦半島の油壺にも土地を購入しており、家族で楽しめるマリンリゾートの建設を計画していた。

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