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2015年9月9日水曜日

柳原白蓮@紅楼夢

奇人変人、大集合~~~

柳原白蓮、伊藤伝衛門、大正天皇、ダライラマ6世、一休さん、怪僧ラスプーチン・・・



柳原白蓮


メールがフルになったようだ・・・

草薙君の影響なのかな?

投書が殺到している?


体格の良い柳原先生(フジテレビ?)が出ていた。

僕は、今から、歯医者の柳原先生の所へ行く。

そして、僕の田舎には、柳原白蓮の館がある。大正天皇の血筋。

炭鉱マフィアのボスに嫁いで、東大生と駆け落ち・・・

この方も、恋の道、一筋? 激しい女? 天皇家の血筋だもんな・・・ お姫様だもんな?

小野洋子は、安田財閥のお姫さま。モノホンのお姫さまは、怖いのだ~~~、強いのだ~~~


本名は? これ? やばいな~~~


燁子(あきこ)


炭鉱のボスは?

伊藤

これも、やばいな~~~



面白い~~~

今、きちんと読んだら・・・

柳原白蓮は、大したタマだ~~~

すげえ~~~、笑い


噂によれば、大正天皇は、変人だったらしいが、その血筋を引いているよな・・・ 白蓮、燁子(あきこ)、

この女、面白そう~~~

こんなんとつきあったら、命がけになる・・・ 笑い

やはり、お姫さまは、怖い~~~


---Wikipedia

柳原 白蓮(やなぎはら びゃくれん、明治18年(1885年)10月15日 - 昭和42年(1967年)2月22日)は歌人。本名は燁子(あきこ)。大正三美人の一人。

父は柳原前光(やなぎはら さきみつ)伯爵、母は前光の妾のひとりで没落士族[1]の娘で柳橋の芸妓となっていた奥津りょう(通名おりょう)。東京に生まれた。

大正天皇の生母である柳原愛子(なるこ)の姪で、大正天皇の従妹にあたる。

生涯


生い立ち

父前光が華やかな鹿鳴館で誕生の知らせを聞いたことから燁子と名付けられる。 燁子は生後7日目に柳原家に引き取られ、前光の正妻・初子の次女として入籍され、当時の華族の慣習としていったんは里子に出されたのちに柳原家に再び戻り、養育された。

1888年(明治21年)生母おりょう病死。1892年(明治25年)麻布南山小学校に入学。1898年(明治31年)華族女学校(のちの女子学習院)に入学。燁子は最初の結婚まで自分が妾の子とは知らなかったという。また前光には、おりょう以外に年来の妾梅がおり、子宝に恵まれなかった梅はおりょうを妹のように、そしておりょう死後は燁子をわが子のように大変可愛がっていたとも言われる。

最初の結婚

1900年(明治33年)14歳で、子爵北小路随光とその女中の間に生まれた嗣子の資武(すけたけ)と結婚し、1901年(明治34年)15歳で男子、北小路功光を出産した。しかし知的障害があったといわれる資武とは早期に夫婦関係が拙くなり、5年後に離婚。実家に戻った[2]。
1908年(明治41年)東洋英和女学校(現・東洋英和女学院高等部)に入学し、寮生活をおくる。佐佐木信綱に師事し「心の花」に短歌を発表し始めた。

再婚と「筑紫の女王」時代

燁子は1911年(明治44年)27歳で、52歳の九州一の炭坑王として財をなし、政友会の代議士であった伊藤鉱業社長伊藤伝右衛門と再婚させられた。これは兄柳原義光が貴族院議員に出馬するため資金が必要だったことと、名門との関係を結びたかった伊藤伝右衛門の思惑が一致した[3]政略結婚と目されたが、当時のマスコミ(主に新聞)では片や名門華族、もう一方は飛ぶ鳥落とす勢いの炭鉱成金同士の結婚ということで“黄金結婚”と大いに祝福された。伊藤伝右衛門は飯塚市幸袋に敷地1500坪、建坪250坪の自宅があったが、さらに福岡市天神と別府市青山に屋根を銅で葺いた別邸(どちらも赤銅(あかがね)御殿と呼ばれた)を建て、燁子を迎え入れた。

こうして燁子は「筑紫の女王」と呼ばれるようになった。しかし複雑な家族構成に悩まされる。伊藤家には妾の子、父の妾の子、妹の子、母方の従兄妹などが同居していた。また数十人もの女中や下男や使用人たちもいた。伝右衛門は何人もの妾がいたが、京都妻のサトの妹のユウにまで手を付けた。ユウは女中見習いとして幸袋の屋敷にいたが、伝右衛門の手が付いたことから燁子はユウをあてがう形となった。後年、白蓮は、夫を挟んで夫の妾と3人で布団を並べていたこともあると告白している。そんな懊悩、苦悩を燁子はひたすら歌に託し「心の花」に作品を発表しつづけた。

1915年(大正4年)、処女歌集『踏絵』を自費出版。号を「白蓮」(信仰していた日蓮にちなむ)とした。その浪漫的な作風は「生の軌跡を華麗かつ驕慢に」(正津勉)詠って、多くの読者を惹き付けた。
こうして白蓮は歌人として名が知られるようになり、大正三美人(他は九条武子と江木欣々、あるいは日向きむ子)の一人として知られるようになった。

別府の赤銅御殿は白蓮を中心とするサロンとなった。そのなかで白蓮は仮想的な恋愛を楽しんだが、その一人に医学博士で歌人の久保猪之吉がいた。妻の久保より江も俳人として名を知られていた。

1918年(大正7年)「大阪朝日」は「筑紫の女王・燁子」を連載。1919年(大正8年)詩集『几帳のかげ』、歌集『幻の華』刊行。

恋に生きる

1918年(大正7年)、戯曲「指鬘外道」(しまんげどう)を雑誌「解放」に発表。これが評判になり、劇団が上演を希望、その許可を求める書状が届いた。差出人は「解放」記者宮崎龍介だった。龍介の父は孫文の辛亥革命を支援した宮崎滔天、龍介も東京帝国大学で「新人会」を結成し、労働運動に打ち込んでいた。この後ろ盾となっていたのは、東京大学の吉野作造、早稲田大学の大山郁夫らの「黎明会」で、「解放」はその機関誌だった。

1920年(大正9年)1月31日、別府の別荘で会った龍介は情熱を込めて社会変革の夢を語った。それから白蓮は「ねたましきかな」と詠う「恋もつ人」になった。龍介も「ブルジョア夫人との交際はまかりならん」として「新人会」を除名になった。白蓮は春秋2回の上京の機会に龍介と逢瀬を重ねて、やがて白蓮は龍介の子を宿した。姦通罪のあった時代の恋は命がけだった。

1921年(大正10年)白蓮は伊藤伝右衛門と上京した機会に姿を消した。同年10月22日の朝日新聞は「筑紫の女王、柳原白蓮女史失踪!」と報じた。内容は「同棲十年の良人(おっと。夫と同義)を捨てて、情人の許へ走る」というものであった。

同日の「朝日新聞」夕刊に白蓮名義で『私は金力を以つて女性の人格的尊厳を無視する貴方に永久の訣別を告げます。私は私の個性の自由と尊貴を護り且培ふ為めに貴方の許を離れます』という公開絶縁状が掲載された。これは白蓮が書いた手紙を宮崎の友人が書き直したものであり、友人たちによって公開が以前から計画されていたという。しかし絶縁状の公開は大きな社会的反響を呼び、当時の世論は白蓮を激しく非難する声で満ちた。特に国家主義の、黒龍会(頭山満の玄洋社の系譜を引く団体)の内田良平らは、国体をゆるがす大事件として白蓮や柳原家を攻撃した。この一件により、兄義光は貴族院議員を辞職することとなった。白蓮は男児(香織)を出産した後、断髪し尼寺に幽閉の身となった。

伊藤伝右衛門は「大阪毎日新聞」に「絶縁状を読みて燁子に与ふ」と題し『(白蓮との結婚生活を)俺の一生の中で、最も苦しかった十年』などと表現した文を掲載したが、白蓮と龍介を姦通罪で起訴することはしなかった。伊藤の親族には白蓮を四つに畳んで『遠賀川にたたきこめ』と激昂する者もいたが、伝右衛門は白蓮に手を出すことを禁じ、白蓮を話題にすることも許さなかった。しかし一方で、白蓮が産んだ男児の父親を確認する訴訟を起こしている。

再々婚以後

1923年(大正12年)関東大震災の後、白蓮の産んだ子は伝右衛門の子ではない[4]という判決が下り、白蓮の姦通は明らかとなった。白蓮は華族から除籍され、財産も没収されて伊藤伝右衛門との離婚が成立した。当時、白蓮母子を預かっていた中野家は、柳原家が娘に何の援助もしないのに対し、宮崎家が定期的に白蓮のために仕送りをしていたことに感服し、柳原家の承諾なしに、龍介に白蓮たちを引き取らせたという。龍介と結婚、香織を伴い親子3人の生活が実現した。

しかし、夫は結核を発症した。一平民となった白蓮は筆一本で必死に家計を支えた。龍介は後に「私が動けなかった三年間は、本当に燁子の手一つで生活したようなもので」と回想している[5]。
1925年(大正14年)には長女、宮崎蕗苳(ふきこ)が誕生。龍介の結核は回復して、その後弁護士として活躍した。1931年(昭和6年)には龍介と中国を旅行している。

1945年(昭和20年)8月11日、長男・香織が鹿屋で戦死した。このことがきっかけとなり、戦後は平和運動に参加、熱心な活動家として知られた。一方、皇太子と正田美智子との結婚に際しては、松平信子ら旧華族出身者と共に強硬に反対した。

1961年(昭和36年)、緑内障で両眼失明、龍介の介護のもとに歌を詠みつつ暮した。1967年(昭和42年)逝去、81歳。1971年(昭和46年)龍介逝去、78歳。スキャンダルの末没落した実家・柳原家を後目に、晩年は平穏で幸せな生涯であった。

二人が逝去まで暮した家は西武池袋線旧上屋敷(あがりやしき)駅近くにあり、いまも子孫が暮している。

脚注 [編集]

^ 父親の新見正興は咸臨丸で知られている1860年の遣米使節団長であったが、明治維新直後に早世している。
^ なお、子を婚家に残し離婚しているが、このことは燁子の本意ではなかった(子を連れて帰りたかったが、当時の家族制度などから“いわば(子と)引き裂かれたと同然”の結末だった)といわれる
^ ただし、伊藤は上野精養軒で白蓮と見合いした後、三井鉱山の有力者の説得をうけて白蓮との結婚を受け入れたとする説もある。(荒俣宏『黄金伝説』)
^ この際、当時の伝右衛門が無精子であるという検査結果が公表されている。
^ 白蓮・宮崎の斯様の“窮状”を人づてに伝え聞き同情した因縁の白蓮の前夫・伊藤が白蓮・宮崎に経済的援助を申し出たことがあったそうだが、別離の事情が事情であった経緯を踏まえ、白蓮ら側から断りがあったという
関連項目 [編集]

北小路功光
柳原家
新見正興-生母おりょうの父。江戸幕府外国奉行。
白洲正子
正親町三条家(嵯峨家)-白蓮から見て、柳原家側の曾祖母の出身家。
嵯峨浩
白洲次郎
旧伊藤伝右衛門邸-飯塚市有形文化財。門は『銅御殿』から移設されたもの。また、白蓮が嫁入り道具として持参した石灯篭が残る。また、ミュージアムショップ「白蓮館」が絶縁状の原文と新聞掲載文を販売している。

参考文献 [編集]

柳原白蓮『幻の華』大正8年
松永伍一・柳原白蓮『火の国の恋』(出版タイムズ社)1959年
宮崎龍介「柳原白蓮との半世紀」(「新評論」昭和42年6月号)
永畑道子『恋の華・白蓮事件』(文藝春秋)1990年
林真理子『白蓮れんれん』(中央公論社)1998年
斉藤憐『恋ひ歌―宮崎龍介と柳原白蓮』(而立書房)2003年
永畑道子『恋の華・白蓮事件』(藤原書店)2008年
荒俣宏 『黄金伝説』(集英社)1990年、(集英社文庫・荒俣宏コレクション)1994年
外部リンク [編集]

柳原家・白洲家・樺山家・川村家 関連家系図

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