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2013年12月7日土曜日

与謝野晶子

戦前の与謝野晶子よりも、退化してしまっているニッポン人。救えねえな~


晶子は日露戦争後から新聞や雑誌に警世の文を書くようになり、評論活動をはじめる。評論は、女性の自立論と政治評論に分類できる。教育問題なども評論している。
女性の自立論は、女性が自分で自己鍛錬・自己修養し、人格陶冶することを説いた。英米思想的な個人主義である。数学が大変得意であり、女性も自然科学を学ぶべきと主張した[4]。
反良妻賢母主義を危険思想だと見る文部省は取り締まり強化に対し、妊娠・出産を国庫に補助させようとする平塚らいてうの唱える母性中心主義は、形を変えた新たな良妻賢母にすぎないと論評し、平塚らいてう、山田わからを相手に母性保護論争を挑んで「婦人は男子にも国家にも寄りかかるべきではない」と主張した。ここで論壇に登場した女性解放思想家山川菊栄は、保護(平塚)か経済的自立(与謝野)かの対立に、婦人運動の歴史的文脈を明らかにし、差別のない社会でしか婦人の解放はありえないと社会主義の立場で整理した。文部省の意向とは全く違う次元で論争は終始した。
政治評論については反共産主義、反ソ連の立場から論陣を張った。その論文の数は、20本を越える。『君死にたまふことなかれ』を前面に出して一概に反戦・反天皇の人物であったわけではなく、当時『労農主義』として紹介されていたマルクス・レーニン主義も批判していた。
シベリア出兵を日本の領土的野心を猜疑され日露戦争の外債による国民生活の疲弊を再び起こす、と反対している。また、米騒動に関して『太陽』誌上に「食料騒動について」という文を書き、その中で当時の寺内正毅内閣の退陣を要求している。
晶子は『中央公論』大正8年(1919年)5月号に「教育の国民化を望む」(単行本『激動の中を行く』にした時『教育の民主主義化を要求す』と改題)という文を書いている。各府県市町村に民選の教育委員を設けることを提案している。今の教育は「文部省の専制的裁断に屈従した教育」であるから、それを「各自治体におけるそれらの教育委員の自由裁量に一任」し、それによって「教育が国民自身のものとなる」と主張している。他にも、ヨーロッパの老婦人が若い婦人とさまざまの社会奉仕に努力する姿を見て、日本にも成人教育や社会教育の場を作るよう提言している。
羽仁もと子による自由学園の開校と前後して文化学院の創立に尽力、文部省の規定に逆らい、男女共学で開校。のち文化学院女学部長。

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