Black Panthersに関する情報が出ていたので、Wikipediaで調べた・・・
あるサイトで、ブラック・パンサーの情報を見つけたので、調べてみた・・・ 1968年、エチオピアのハイレセラシエ皇帝がカリフォルニアで演説したのも関係しているのかな? UCバークレーでのフリー・スピーチ・ムーブメントなどとも関係しているのかな?
個人的には、暴力容認主義はなじまないが・・・ 当時の厳しい情勢では、そうも言えなかった?
キング牧師 - 非暴力 マルコムX - 暴力容認
やはり、党議長のボビー・シールは1936年生まれ・・・
やじろべえの支点なのかな?
僕の場合は、個人主義を選択したが、その中間派は多くが、もたれあい派
もしかしたら、闘争仲間、難民仲間は、それなりに厳しい世代なのかも?
僕が一番苦手なのは、もたれあい派ですが・・・ 仲間派もそれなりに苦手だが・・・ もたれあい派よりはまし。。。
闘争仲間、もたれあい派、個、もたれあい派、難民仲間(引きこもり、ニート、浮遊系)
このような構造なのかもしれない・・・
難民仲間より若い世代は、個+もたれあい派、つまり、しらけ世代と似ている。
難民仲間が生き残るための選択肢は、もたれあい派、あるいは、個なのかもしれない・・・
ただ、急速なグローバリズム、流動化などを考えると、選択肢は、個が正解なのかも?
個、部分、全体を区別できて、個の自立、責任、判断、説明などをできる能力を持つことが、時代の要請なのかも?
---Wikipedia
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ブラックパンサー党(黒豹党、英:Black Panther Party)は、1960年代後半から1970年代にかけてアメリカで黒人民族主義運動・黒人解放闘争を展開していた急進的な政治組織。1966年、カリフォルニア州オークランドにおいてヒューイ・P・ニュートンとボビー・シールにより、都市部の貧しい黒人が居住するゲットーを警官から自衛するために結成された。共産主義と民族主義を標榜しており、革命による黒人解放を提唱し、アフリカ系アメリカ人に対し武装蜂起を呼びかけた。また、貧困層の児童に対する無料の食事配給や、治療費が無料の「人民病院」の建設を行った。日本では、かつて新聞などで「黒豹党」と呼ばれることが多かった。
1965年、公民権運動を指導していたマルコムXの暗殺後に活動を開始し、1968年、マーティン・ルーサー・キングが暗殺されてから活動は盛り上がりを見せた。
1965年、ヒューイとボビーは、オークランドに支部を持つ、ロバート・ウィリアムズ率いる公民権運動団体「革命的行動運動(Revolutionaly Action Movement,通称RAM)に入党した。ウィリアムズは初めはノースカロライナ州、のちに中華人民共和国から「クルセイダー」という機関紙を出していた。この組織は暴力的だと見られており、1965年、東海岸の党員が、ニューヨークの自由の女神像や自由の鐘、ワシントン記念塔を爆破しようとしたかどで起訴されている。
オークランド支部の構成員のほとんどは学生で、そのうちヒューイとボビーは最も戦闘的な意見を持っていた。この間、2人はオークランド北部の貧困対策センターで働いていた。2人はオークランド市に対し、警官の暴力行為について調査する委員会を置くよう、500人の署名を集めた。また、ヒューイはオークランド市立大とサンフランシスコ法科大で授業を行った。このようにして2人は同志を集め、1967年ブラックパンサー党を結成した。このとき、彼らは党の目標を示した十項目綱領を作り、ヒューイの弟メルヴィンの提案で、アフロヘアーにし、ユニフォームとして青いシャツ、黒いジャケットとズボン、黒いベレー帽を着用し、ショットガンで武装することを決めた。
ブラックパンサー党は、戦闘的な面ではマルコムXの暴力主義を受けつぎ、マーティン・ルーサー・キングの非暴力主義を否定していた学生非暴力調整委員会(SNCC)のストークリー・カーマイケルを一時期、党の主席に迎えたが、思想などの面で意見が合わず、離党した。非暴力主義には批判的であったが、キング牧師個人には尊敬の念を抱いていた。
また、シールやニュートンら指導者は共産主義の影響を受けており、マルクスやエンゲルス、レーニン、スターリン、ゲバラらの思想に共鳴していたが、とりわけ毛沢東から大きな影響を受け、のちにヒューイら指導者が中国を訪問している。
彼らはアメリカ合衆国における黒人社会を第三世界、植民地であると考え、アメリカ合衆国と戦っていたベトナムや朝鮮民主主義人民共和国、キューバといった国々と連帯した。また、日本人民にも何度か連帯のアピールをしており、アメリカ軍政下の沖縄県にもいくらか党員が存在した。日本本土にも、「黒豹党支援日本委員会」という団体があった。
ニュートンやシールは、彼らの標榜する民族主義を「革命的民族主義」と定義し、帝国主義的な面を持つ「反動的民族主義」と区別している。
ニュートンよれば、「革命的民族主義」は、ほかの搾取された民族と連帯して帝国主義と闘う、共産主義的な民族主義であり、搾取的な性格を持つ「反動的民族主義」とは異なる。ブラックパンサー党はアジア、アフリカ、ラテンアメリカそしてアメリカ合衆国国内の被差別民族との連帯を宣言し、彼らの思想を「インターコミューナリズム」と名づけ、機関紙「ザ・ブラック・パンサー」に、海外の闘争を紹介する「インターコミューナル・ニュース」を掲載した。
ブラックパンサー党はスウェーデンのストックホルムに「海外局」を設置し、アルジェリアやキューバにも亡命した党員が拠点を置いた。1970年には南ベトナム解放民族戦線に対し、義勇兵の派遣を申し入れている。国内では、プエルトリコの独立を求めるヤングローズや、中国系アメリカ人の政治団体紅衛党、白人ラディカルの青年国際党、学生を中心とする民主的社会のための学生同盟(SDS)といった左派の政党と連帯して反差別、反戦闘争を闘った。女性解放を目的とするフェミニズム運動や同性愛者の同性愛者解放戦線(Gay Liberation Front)とも連帯した。
党の結成直後、次の項目が決定された。
我々は、我々黒人および抑圧されたコミュニティーの運命を決定する力を欲する。
我々は、我々人民の完全な雇用を欲する。
我々は、資本家による、我々コミュニティーに対する搾取の終わりを欲する。
我々は、人間が居住するに値する最低限の住宅を欲する。
我々は、人民のための、アメリカ社会の真実を暴露する教育を求める。
我々は、真実の歴史と、今日の社会における我々の役割を教える教育を欲する。
我々はすべての黒人と、抑圧された人民の完全な健康を欲する。
我々は警官による、アメリカ合衆国国内における黒人および抑圧されたほかの人種の人々に対する暴力行為の即時停止を欲する。
我々は、すべての侵略戦争の即時中止を欲する。
我々は、国立、州立、地方、都市、および軍の刑務所に収監されている黒人の解放を欲する。我々は、この国の法律のもとでいわゆる犯罪のために告訴された囚人のために、同じ階層出身の陪審員による裁判を欲する。
我々は、土地、パン、教育、住宅、衣服、正義、平和および現代技術によるコミュニティーの統治を欲する。
毛沢東語録に影響を受けたヒューイ・P・ニュートンら党指導部は、1968年頃から党員に「人民に奉仕せよ」と指示し、黒人をはじめとする貧困層の人々に対する社会奉仕活動を開始した。
まず、栄養が不十分な貧困層の児童に対し、朝食を無料で配給する「無料朝食プログラム」を開始した。これにより、述べ1万人の児童が朝食を得ることができた。
また、治療費が無料の「人民病院」を建設し、鎌状赤血球症の調査を行い、50万人の人々が鎌状赤血球症に罹患していることを明らかにし、応急処置など治療も行った。
1968年、党員数は当初の400人から5000人以上に達し、全米に40の支部が置かれ、機関紙「ザ・ブラック・パンサー」は40万部以上が発行された。当初ブラックパンサー党は、警官によるゲットーの人々への暴行に対する自衛を目的に、銃と六法全書を携行して警官に対する逆パトロールを行った。
1967年5月2日、30名の党員が銃を持ってカリフォルニア州サクラメントの州議会前で演説した後で中に入り、逮捕された。このとき、州議会ではブラックパンサーによる逆パトロールの取締りを目的とした銃の規制を審議していた。
J・エドガー・フーバー率いる連邦捜査局(FBI)は危機感を抱き、ブラックパンサーに対する弾圧を開始した。4月7日、オークランドにおいて、ピクニックの買い物をしていた17歳の党員ボビー・ハットンが警官に襲われ、射殺された。このときハットンは丸裸になり、武装していないことを警官に示そうとしたが、聞き入れられなかった。
1969年、議長ボビー・シールが6人の党員とともにシカゴで逮捕され、16の罪状によって起訴され、懲役四年の刑を宣告された。1971年には、1968年に起こった警官殺害の罪で起訴されたが、不起訴処分とされた。ボビーは獄中で手記「時代を獲得せよ」を出版した(この本はパブリック・ドメインであり、インターネット上で読める)。12月4日、イリノイ州クック郡において、地元警察とFBIがイリノイ州議長フレッド・ハンプトンの自宅を襲撃し、射殺した。
1970年4月2日、ニューヨークで21人の党員が、警官殺害とビル爆破の陰謀を企てたとして逮捕された。5月22日には、女性党員エリカ・ハギンズら8人がコネティカット州ニューヘヴンで起きた殺人事件の容疑者として逮捕された。
この間、党幹部デイビッド・ヒリアードがベトナム反戦集会において「俺たちはニクソンを殺す。俺たちの自由への道を阻むやつはどんな奴であろうと殺してやる」などと、当時の大統領リチャード・ニクソンに対する闘争の開始を扇動し、大統領暗殺未遂の罪で逮捕された。
1970年8月ニューヨークで黒人青年3名がパトロール中の警官2名を狙撃して銃撃戦となり黒人1名が死亡する事件が発生し、同年10月デトロイトで警官と銃撃戦を展開するなどブラックパンサー側は反撃を開始したが1968年に党情報相だったエルドリッジ・クリーヴァーが思想や方針の違いにより離党した後、党は分裂してしまった。
やがて、ニクソン政権の執拗な弾圧により党員が次々と逮捕され1971年には政治的に柔軟化し、以後は地域社会における奉仕活動に専念し1970年代半ばにはほぼ党は解散していた。その後、一部の元党員が「黒人解放軍(Black Liberation Army)」を結成し、銃撃戦や爆弾攻撃、脱獄などで1980年代初頭まで抵抗を続けた。
黒人解放軍の解体後、1989年に「新ブラックパンサー党(New Black Panther Party)が結成され、かつてのブラックパンサー党の後継者であると主張しているが、旧ブラックパンサー党が標榜していた共産主義や毛沢東主義ではなく反白人・反ユダヤ主義を標榜している。
ボビー・シール:党議長。1936年10月22日生。
ヒューイ・P・ニュートン:防衛相、最高人民奉仕官。1942年2月17日、ルイジアナ州モンロー出身。1989年8月22日没。
デイビッド・ヒリアード:参謀長。ボビーとヒューイの逮捕後、党を指揮した。
アンジェラ・デービス
エリカ・ハギンズ
ジョージ・ジャクソン:野戦司令官。獄中で囚人の組織化に尽力した。
ジョナサン・ジャクソン:ジョージ・ジャクソンの弟。兄ジョージの釈放を要求して地方裁判所に立てこもり、警官に射殺された。
エルドリッジ・クリーヴァー:情報相。1935年8月31日、アーカンソー州出身。1968年、思想の違いにより離党し、アルジェリアに亡命した。その後、キューバやフランスで活動。1975年アメリカに帰国後、共産主義を放棄して保守主義に転向し、ロナルド・レーガンの共和党政権を支持した。1998年5月1日没。著書に「氷の上の魂」がある。
エモリー・ダグラス:党文化相。機関紙「ザ・ブラック・パンサー」などに革命戦争を描いた絵画や風刺画を多数寄稿した。
ボビー・ハットン:1951年生。1966年、15歳で入党。ボビー、ヒューイに次ぐ3人目の党員。1968年4月7日、カリフォルニア州オークランド市内でピクニックの準備中に警官の襲撃を受け、射殺された。
サム・ナピア:新聞配布部長。事務所内で警察により射殺された。
フレッド・ハンプトン:イリノイ州議長。1948年8月30日生。1969年12月4日、イリノイ州クック郡の彼のアパート内で、イリノイ州警察と連邦捜査局(FBI)により殺害される。
リチャード・アオキ:党結成時のメンバーの一人。日系アメリカ人。1938年、カリフォルニア州サン・レアンドロ出身。第二次世界大戦中、1942年から1945年までトパーズ収容所に抑留される。
ベティ・ヴァン・パター
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