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2009年12月3日木曜日

ハードボイルド作家

ヘミングウェイ、チャンドラー、ハメット

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アーネスト・ミラー・ヘミングウェイ(Ernest Miller Hemingway、1899年7月21日 - 1961年7月2日)は、アメリカの小説家・詩人。



概要 [編集]

イリノイ州オークパーク(現在のシカゴ)に生まれる。父は医師、母は元声楽家で、六人兄弟の長男だった。父は活動的な人物で、釣り狩猟ボクシングなどの手ほどきを受けた。
高校卒業後の1917年に地方紙「カンザスシティ・スター」紙の見習い記者となるも退職。翌年赤十字の一員として北イタリアのフォッサルタ戦線に赴くも重傷を負う。戦後はカナダトロントにて「トロント・スター」紙のフリー記者をつとめ、特派員としてパリに渡りガートルード・スタインらとの知遇を得て小説を書きはじめた。
行動派の作家で、スペイン内戦第一次世界大戦にも積極的に関わり、その経験を元に行動的な主人公をおいた小説をものにした。『誰がために鐘は鳴る』『武器よさらば』などはそうした経験の賜物。当時のハリウッドに映画化の素材を提供した。
短編には簡潔文体の作品が多く、これらはダシール・ハメットレイモンド・チャンドラーと後に続くハードボイルド文学の原点とされている。
1954年、『老人と海』が大きく評価され、ノーベル文学賞を受賞(ノーベル文学賞は個別の作品ではなく、作家の功績および作品全体に与えられることに注意)。この年、二度の航空機事故に遭う。二度とも奇跡的に生還したが、重症を負い授賞式には出られなかった。以降彼の特徴であった肉体的な頑強さや、行動的な面を取り戻すことはなかった。
晩年は事故の後遺症による躁鬱に悩まされるようになり、執筆活動も次第に滞りがちになっていく。1961年ライフルで自殺。
海流のなかの島々』の舞台ともなったバハマビミニ島には、滞在していたとされるホテルの一室を改装したアーネスト・ヘミングウェイ博物館があり、遺品などが展示されていたが、2006年、火災により焼失した。


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レイモンド・ソーントン・チャンドラーRaymond Thornton Chandler1888年7月23日 - 1959年3月26日)は、アメリカ合衆国シカゴ生まれの、20世紀で最も有名なハードボイルド作家の一人。



経歴 [編集]

1895年に両親が離婚したことにより、母親についてイギリスに渡る。
ダリッジ・カレッジを中退してパリミュンヘンで学んだ後イギリスへ戻り、海軍省に入省するものの長続きせずに退職。新聞記者としても働く。1912年、安定した職を求めアメリカに向かう。
第一次世界大戦が勃発すると、1917年よりカナダ軍・イギリス軍に従軍。除隊後再びアメリカに戻る。その後石油会社の役員を務めるようになるが、1932年に解雇されてしまい、これをきっかけに小説の執筆で身を立てることになる。1939年にアメリカパルプ・マガジンのひとつである『ブラック・マスク』に中篇「脅迫者は撃たない」を投稿、掲載されデビュー。同年発表の処女長編『大いなる眠り』で初登場したフィリップ・マーロウは、チャンドラーが生み出した、そして全ハードボイルド小説の中でも最も有名な探偵といわれている。マーロウを主人公とする作品は何度もハリウッド映画化された。
1954年に妻をなくして非常にふさぎ込むようになり、酒におぼれ体調を崩した。1959年没。

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ダシール・ハメットSamuel Dashiell Hammett1894年5月27日 - 1961年1月10日) は、アメリカのミステリ作家。推理小説の世界にいわゆるハードボイルドスタイルを確立した代表的な人物である。代表作は『血の収穫』『マルタの鷹』。
サム・スペードコンチネンタル・オプなどの探偵を創造した。
ハメット賞The Hammett Prize)」は、彼の業績を称え、その名を冠したものである。国際推理作家協会(IACW:International Association of Crime Writers)北米支部によって制定されたもので、1992年より毎年、アメリカもしくはカナダ人作家を対象としてノミネートされた作品から最優秀一作を選定している。


経歴 [編集]

生後数年で貧しい境遇となり様々な職業を経験した。第一次世界大戦後はアメリカ屈指の探偵会社であるピンカートン探偵社探偵として働いていたこともある。この際の経験が、作品に生かされていると言われる。その後、肺結核を患って文筆活動に入る。
1922年から、推理小説雑誌『ブラック・マスク』誌に短編推理小説の執筆を開始。同誌の看板作家の一人となった。「報告書のように簡潔な」筆致で、登場人物の行動を描く彼のハードボイルドスタイルは、この頃に確立されている。当時の初期作品にしばしば登場したのが、小太りのコンチネンタル探偵社社員「コンチネンタル・オプ」である。
1929年には『血の収穫』、続いて『デイン家の呪い』とコンチネンタル・オプものの長編を送り出した。特に『血の収穫』は壮絶なバイオレンスドラマで、その後のアクション小説・映画に多大な影響を与えた。
1929年に『ブラック・マスク』誌に連載され、翌年単行本となった『マルタの鷹』は、ハメットのもっとも有名な作品である。サンフランシスコの私立探偵サム・スペードが真相追求のために行動する姿を完全客観のカメラアイスタイルで描き、後続のハードボイルド作家の範とされる。
また、1931年の長編『ガラスの鍵』は、賭博師ネド・ボーモントを主人公に錯綜した事件を描いた作品で、やはり厳しい客観筆致で描かれており、自身のもっとも好きな自作であった。この2作はとりわけ後世の評価が高い。
1934年には、やや通俗的なタッチで夫婦探偵の活躍を描いた『影なき男』を書き、これは大衆からも人気を博した。
しかし、その後のハメットは、自作の映画化で収入が得られるようになったこともあってか、創作意欲は衰えている。
1942年、太平洋戦争勃発後、彼は陸軍に志願し、戦時中のほとんどをアリューシャン諸島で陸軍の新聞を作る下士官として過ごしたが肺気腫で除隊している。
労働者の実態をよく知るが故に、ハメットは労働運動にも強い共感を持っていた。彼は反ファシストであり1930年から1937年にはアメリカ共産党にも入っていた。だがそれが第二次世界大戦後冷戦下のアメリカで吹き荒れた「赤狩り」の被害にあう原因ともなり、友人のエリア・カザンによる密告を受け起訴され、自らの活動や他の共産党メンバーに関する自白を拒み続けた結果、法廷侮辱罪で有罪判決を受け受刑した。晩年は病と不遇のうちに亡くなっている。



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