訃報:アンドレイ・ボズネセンスキーさん 77歳=ロシアの詩人
◇「百万本のバラ」
アンドレイ・ボズネセンスキーさん 77歳(ロシアの詩人)インタファクス通信によると1日、モスクワの自宅で死去。死因は明らかにされていないが、長く病気を患っていたという。
モスクワ生まれ。モスクワ建築大学を卒業後、60~70年代に次々に詩集を発表。前衛的な作風で人気を博したが、ソ連当局としばしば対立した。日本でも知られる「百万本のバラ」のロシア語原詞の作詞者。【モスクワ】
毎日新聞 2010年6月2日 東京朝刊
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「百万本のバラ」(ひゃくまんぼんの - 、ロシア語: Миллион розミリオーン・ロース)は、ラトビアの歌謡曲『Dāvāja Māriņaダーヴァーヤ・マーリニャ』を原曲とするロシア語の歌謡曲である。ソビエト連邦の歌手アーラ・プガチョワ(Алла Пугачёва)の持ち歌として知られる。日本では加藤登紀子による日本語版でも知られる。
『百万本のバラ』の原曲は、1981年にラトビアの放送局「ミクロフォンス (Mikrofons)」が主催する歌謡コンテスト「ミクロフォナ・アプタウヤ (lv:Mikrofona aptauja)」に出場した『Dāvāja Māriņa(マーラは与えた)[1]』というラトビア語の歌謡曲である。作曲はライモンズ・パウルス(lv:Raimonds Pauls)、作詞はレオンス・ブリアディス (苗字のカナ表記はブリエディスともする。lv:Leons Briedis)による[2]。『Dāvāja Māriņa』は、このコンテストでアイヤ・ククレ (lv:Aija Kukule)とリーガ・クレイツベルガ (Līga Kreicberga)の2人によって歌唱され、優勝した[3]。
歌詞の内容は、後述のロシア語版やその内容を踏襲した日本語版とはまったく異なり、大国にその運命を翻弄されてきたラトビアの苦難を暗示するものだった[2]。
アーラ・プガチョワの歌唱で知られるロシア語版の作詞は、アンドレイ・ヴォズネセンスキー(ru:Вознесенский,_Андрей_Андреевич)によるものである。1982年にメロジヤから33回転シングル盤として発売された。多くのテレビ番組やラジオ番組で取り上げられ、ソ連崩壊まで長きにわたって絶大な人気を博した。1983年には日本でもLP盤としてビクターよりリリースされ、1988年には同じくビクターよりCDが出された。
歌詞の内容はグルジアの画家ニコ・ピロスマニがマルガリータという名の女優に恋したという逸話に基づいている[5]。ラトビアの作曲家が書いた曲に、ロシアの詩人がグルジアの画家のロマンスを元に詞をつけ、モスクワ生まれの美人歌手が歌うという、多様な民族の芸術家が絡んでいる点で、ソ連ならではの歌とも言える。
このロマンスの真実性については諸説ある。ピロスマニはマルガリータをモデルとしたといわれる作品を何枚か残しており、グルジアの首都トビリシの国立美術館で『女優マルガリータ』を観ることができる[5]。1969年にパリでピロスマニの個展が開催された際にはマルガリータ本人と目される女性が現れたと伝えられる。一方、1975年にピロスマニについての研究書を著したエラスト・クズネツォフはこの著作の中でマルガリータの実在性に強い疑問を呈していた[2]。
山之内重美は2002年の著作において、ピロスマニにマルガリータという名の恋人がいたことは確からしいとしつつ、彼女がバラの花を愛した、とか、画家が大量の真紅のバラを贈った、といったエピソードはヴォズネセンスキーの創作だとしている[6]。2007年にはロシアの文化テレビ局が放送したピロスマニについてのドキュメンタリー番組でパリでの個展の際の出来事が紹介された[2]。
日本語によるカバー [編集]
日本語版は、加藤登紀子の訳詞および歌唱にて1987年にシングル盤として発表されたバージョンが著名である。日本ではこの加藤による歌唱があまりに有名なため、日本の歌だと誤解する者も多い。加藤より前の1984年に小田陽子がキングレコードから岩谷時子の訳詩でリリースしている。他に松山善三による訳詞があり、青木裕史、久米小百合、クミコなどはそれで歌っている。
備考 [編集]
- 広島県福山市にある西日本旅客鉄道の福山駅在来線全ホーム(但し季節限定使用)と、山陽本線の里庄駅・備後赤坂駅・松永駅の三原方面行ホームにて入線メロディに採用されている。バラが福山市の市花であることにちなんで採用されている。
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