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2008年10月11日土曜日

レイモンド カーヴァー

出てきた・・・

バーンスタイン

レイモンド・カーヴァー

---Wikipedia
レナード・バーンスタイン (Leonard Bernstein, 1918年8月25日 - 1990年10月14日)は、ユダヤ系アメリカ人の作曲家・指揮者である。またピアノの演奏家としても知られている。アメリカが生んだ最初の国際的レベルの指揮者になり、ヘルベルト・フォン・カラヤンと並んで、20世紀後半のクラシック音楽界をリードしてきたスター音楽家だった。愛称はレニー。夫人のフェリシア・モンテアレグレはチリ出身の女優・ピアニスト。

バーンスタインはウクライナ系ユダヤ人移民の3世としてマサチューセッツ州ローレンスに生まれる。生まれた当初の名前はルイス(後にレナードに改名する)。父親サミュエルは敬虔なユダヤ教徒であった。家族には音楽的な環境は全くなかったが、母親ジェニーが持っていた蓄音機の音楽に耳を傾けるのが大好きな赤ん坊だったという。理髪店を経営した父親の強い反対を押し切って、プロの音楽家の道を志した。
ボストン・ラテン・スクール(Boston Latin School)を経て、ハーヴァード大学・カーティス音楽院で学ぶ。彼が指揮者を志したのはディミトリ・ミトロプーロスの刺激だった。指揮ではフリッツ・ライナーやセルゲイ・クーセヴィツキーに師事し、作曲はウォルター・ピストンに師事した。ピアノはイサベラ・ヴェンゲーロワに師事している。カーティス音楽院を卒業後、しばらく仕事を得られない時期があったが、1943年夏にアルトゥール・ロジンスキーの指名によりニューヨーク・フィルハーモニックの「副指揮者」(Assistant Conductor)に就任した。
1943年11月14日、病気のため指揮できなくなった大指揮者ブルーノ・ワルターの代役としてニューヨーク・フィルを指揮、この日のコンサートはラジオでも放送されていたこともあり一大センセーションを巻き起こす。この時の曲目は以下の通りである。
ロベルト・シューマン『マンフレッド序曲』
ミクロス・ローザ(ハンガリー出身の作曲家、映画「ベン・ハー」の音楽などが代表作)『主題、変奏曲と終曲 Op.13a』
リヒャルト・シュトラウス『ドン・キホーテ』(チェロ:ジョゼフ・シュスター、ヴィオラ:ウィリアム・リンサー)
リヒャルト・ワーグナー『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第1幕前奏曲
1958年、アメリカ人指揮者として史上初めてニューヨーク・フィルハーモニックの音楽監督に就任する。バーンスタインとニューヨーク・フィルのコンビは大成功を収め、同フィルの黄金時代をもたらした。作り出す音楽の魅力、気さくでおおらかな性格、指揮者としての情熱的な指揮ぶり(興に乗ると指揮台上でジャンプすることもあった)などでファンを魅了し、スター性も備えていた。CBSレコードと録音契約を交わした際には「彼の録音に際しては、録音曲目の決定をほぼ彼に一任する」待遇を受け、当時としては画期的なレパートリーも数多く録音した。
1969年にニューヨーク・フィルの音楽監督を辞任した後は常任指揮者のポストには就かず、ウィーン・フィル、イスラエル・フィル、バイエルン放送交響楽団、ロンドン交響楽団、フランス国立管弦楽団などに客演しては名演奏を聴かせた。ことに同じユダヤ系であるグスタフ・マーラーの演奏は自ら“自分で書いたような気がしてくる”と言うほどで、数々の名演奏を残した。音楽解説者・教育者としても大きな業績を残し、テレビ放送でクラシック音楽やジャズについての啓蒙的な解説を演奏を交えて行った。マイケル・ティルソン・トーマス、小澤征爾、大植英次、佐渡裕など多くの弟子を世に送り出したことでも有名である。
1985年8月に広島を訪れ、被爆40周年を悼むための「広島平和コンサート」を開催した。1989年のクリスマスには、直前に起きたベルリンの壁崩壊を受け、ベルリンで東西ドイツ・アメリカ・ソ連・フランス・イギリスの各オーケストラの混成メンバーでベートーヴェンの交響曲第9番を指揮、この時第4楽章の「歓喜の歌」の“Freude”を“Freiheit(自由)”にして演奏し、東西冷戦終結を象徴する演奏会として記憶されることとなった。音楽家として社会的なメッセージを発信する活動も数多く行ったが、時にはそうした行動が物議を醸すこともあった。
1990年6月には札幌でパシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)を開始し、後進の育成にも力を入れようとしていたが、既にバーンスタインは病に冒されていた。同年8月19日のタングルウッド音楽祭におけるボストン交響楽団との演奏(ブリテン:「4つの海の間奏曲」、ベートーヴェン:交響曲第7番)が最後の舞台となり、10月9日に指揮活動からの引退を表明する。それから5日後の10月14日に、肺癌のためニューヨーク市内の自宅で逝去した。「アメリカの歴史上、最も豊かな才能に恵まれ、最も大きな成功を収めた音楽家の一人(ニューヨーク・タイムズ)」バーンスタイン、72歳と50日の生涯だった。
バーンスタインは生涯に7度来日した。最初の4回(1961年、1970年、1974年、1979年)はニューヨーク・フィルを率いて。1985年には8月上旬に前述の「広島平和コンサート」を開催し、9月前半にはイスラエル・フィルを率いて来日公演を行った。この時にNHKホールで演奏されたマーラーの交響曲第9番は、ベルリン・フィルとの歴史的演奏(指揮活動の項を参照)をも凌ぐ壮絶な超名演だと当時の聴衆から評価されている。最後(1990年)はPMF、それに続いてロンドン交響楽団を率い、東京で2回の公演を行った。しかし、バーンスタインの病状悪化が周囲に知らされず、2回の東京公演以降に予定されていた演奏会をキャンセルし、途中でアメリカに帰国することになる。この一件は、7月10日の演奏会に天皇が招待されていたことや、自作(「ウェスト・サイド・ストーリー」よりシンフォニック・ダンス)を弟子の大植英次に指揮させたこともあり、観客の一部と主催者との間にトラブルを起こす事態にまで発展した。
映画「リチャード・ニクソン暗殺を企てた男」でショーン・ペン演じる主人公サミュエルが敬愛する人物として、劇中何度もバーンスタインの名がセリフとして出てくる。

ヘビースモーカー
バーンスタインはヘビー・スモーカーとしても有名で、14歳の時に煙草を覚えたという。煙草にまつわるエピソードも多く、1986年(68歳の時)には米国の新聞紙面で「私は20歳代の半ばに肺気腫の兆候があると診断された。煙草をやめなければ35歳までに死ぬと言われた」と語ったことがある。著名なミュンヘンの音楽評論家であるヨアヒム・カイザーの談話によれば、彼は1日に煙草を100本(5箱)とウイスキー1本を飲む事を日課としていたという。また晩年にアシスタントを務めた佐渡裕の著書によれば、しばしば「今日で禁煙するが、最後に1本だけ」と煙草に火をつけ、結局やめたことはなかったという。この不摂生な生活習慣が、彼の死期を早めた可能性が高い。

カラヤン
バーンスタインがカラヤンと初めて会ったのは1948年、彼がまだ30歳の時であった。音楽ファンから“ライバル”とみなされてきた2人だけに、おびただしい数に及ぶ比較などが行われ、2人に関連して語られるエピソードには脚色も多い。
ウィーンでは、バーンスタインの演奏会の前後にカラヤンの演奏会が開かれることがよくあった。佐渡裕の話によれば、1988年秋のある日のこと、佐渡はバーンスタインの演奏会の翌日にあったカラヤンの演奏会の前売り券を購入した。自分の演奏会の翌日にカラヤンの演奏会があることを知ったバーンスタインは佐渡に「明日(カラヤンの演奏会に)行くのか?」と尋ね、佐渡が「行きます」と告白したところ「俺も連れてってくれよ」。佐渡とマネージャーが「あなたが行けば、マスコミがスキャンダラスに書き立てるから」と行くことを断念するよう説得したが、「俺はヤツの音楽は嫌いなんだけど、ヤツの顔が見たいんだ」。翌日、お忍びでカラヤンの演奏会場に出現したバーンスタインは、舞台裏で“めでたく”カラヤンと対面したという。
カラヤンの伝記作者リチャード・オズボーンによれば、カラヤンは1988年4月5日、80歳の誕生日祝いのバースデー・カードをバーンスタインから受け取ったという。翌1989年7月16日にカラヤンが死去した時、パリの演奏会でこのニュースに接したバーンスタインは、彼のために2分間の黙祷を捧げ、2ヶ月後の9月16日にウィーン・フィルが開いたカラヤン追悼演奏会ではベートーヴェンの弦楽四重奏曲第16番Op.135の弦楽合奏版を指揮した。
特に若い頃はお互いに相手の才能を認め合っていたと、オズボーンは記している。1958年にニューヨーク・フィルの客演にカラヤンを招聘したのもバーンスタインであった。カラヤンは11月13日から23日にかけて、合計8回の演奏会を指揮している。曲はモーツァルトの交響曲第40番、リヒャルト・シュトラウスの「英雄の生涯」など。

トスカニーニ
バーンスタインの若い頃、自宅で「トスカニーニの指揮する」ベルリオーズの「ロメオとジュリエット」のレコードを聴いていたところ、ふと疑問に思う演奏箇所があったため、バーンスタインはその事を聞くためにトスカニーニの自宅を訪問し面会した。しかし、レコード室を管理していたトスカニーニの息子が外出しており、「疑問点に関しては後ほど手紙で答えよう」ということになった。ところが、バーンスタインが帰宅後、聴いていたレコードをよく見ると演奏者はトスカニーニではなくシャルル・ミュンシュであった。あわてたバーンスタインは早速己の勘違いを謝罪する手紙を書き、それを出そうとしたところトスカニーニからの返事が届いた。恐る恐るその手紙を見ると、中にはこう書いてあった。「君の指摘を受けてレコードを聴き直してみたが、私の解釈は間違っていないと思う。しかし、それが万全なものであるとも限らないはずだ。貴重な忠告をありがとう」。
なお、このエピソードは少なくとも1954年(≒トスカニーニの引退後)とみられている。というのも、ミュンシュによる「ロメオとジュリエット」(全曲)の最初の録音が1954年に行われているからである。また、バーンスタインが聞いたのは第2部のどこかであると考えられる。トスカニーニによる「ロメオとジュリエット」全曲のレコードは、トスカニーニの死後の1959年にリリースされており、ミュンシュ盤が発売されていた時点でのトスカニーニの「ロメオとジュリエット」のレコードは、第2部のオーケストラ部分のみを録音したものしかリリースされていなかったからである。

フルトヴェングラー
1950年、フルトヴェングラーがアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団に客演した際、ちょうどアムステルダムに仕事で滞在していたバーンスタインはフルトヴェングラーの演奏会を聴きに行き、特にブラームスの交響曲第1番に呪縛された。演奏会終了後、楽屋を訪ねようとしたが、ナチスの協力者とされているフルトヴェングラーをユダヤ人のバーンスタインが訪問するというのは政治的にも非常に危険なことだと彼のエージェントに止められたため(当日演奏会場の外では、フルトヴェングラーが第二次世界大戦中ドイツに留まったことを非難するデモが行われていた)、断念せざるをえなかった。そしてついにこの二人の天才的な芸術家が個人的な面識を持つチャンスは永遠に失われたのであった。フルトヴェングラーの死後、バーンスタインはフルトヴェングラーの日記を読む機会があり、アムステルダムでのフルトヴェングラーの演奏会の数日後、バーンスタインの演奏会をフルトヴェングラーが聴きに行き、この若いアメリカの指揮者に完全に魅了された、とあった。演奏会後にバーンスタインに会おうとしたが、やはり政治的な問題もあり、自分は人見知りする性質なので諦めたと書かれていた。

チェリビダッケ
同業の指揮者に対する辛らつな批判で知られるセルジュ・チェリビダッケの矛先は、当然バーンスタインにも向けられていた。バーンスタインは「自分の世界とは無縁」である、と語った。しかし、バーンスタインが1990年に亡くなった時、ちょうど来日していたチェリビダッケは、バーンスタインについて「彼と私は長年書簡を交わしてきた。彼は真の天才だった。彼は亡くなるにはあまりにも早すぎた」と、その死を悼んだと言われている。

カルロス・クライバー
12歳下であるカルロス・クライバーをバーンスタインは深く尊敬しており、クライバーの指揮したプッチーニの「ラ・ボエーム」を「最も美しい聴体験の一つ」と語っているほどであった。クライバーは、1992年1月1日にバーンスタインが果たせなかったウィーン・フィルとのニューイヤーコンサートの指揮を代行している。しかし、同年3月のウィーン・フィル創立150周年記念来日公演はクライバーの急病によりキャンセルされ、ジュゼッペ・シノーポリが来日した。

同性愛と共産主義への傾倒
バーンスタインに限らず、当時のアメリカの多くの芸術家は政治的傾向として左翼に属していた。バーンスタインは熱心な民主党支持者であり、ジョン・F・ケネディ大統領を理想の政治家として尊敬していた。
バーンスタインは師匠のミトロプーロスと同じく、同性愛傾向も有していた。彼は結婚して子供もおり、妻のフェリシアのことも深く愛していた(彼女の死は彼に大きな精神的打撃を与えたことを彼の周囲の人々は回想している)が、このような同性愛傾向を隠さず、男性といちゃつくことが多かった。たまりかねたフェリシアが「もう男といちゃつくのはやめて!」と訴えると、バーンスタイン自身は平然と「なに言ってるんだい? 芸術家ってのはホミンテルン(ホモ+コミンテルン)なんだぜ」と答えたという。自作のミュージカル『キャンディード』には“Glitter and Be Gay”というソプラノ用超絶技巧アリアがあるが、このタイトルとバーンスタインの性的指向との関係は不明である。

レナード・バーンスタインの指揮活動は、大きく分けて3つの時期に大別することができる。
1943年-1958年 デビュー・コンサートからニューヨーク・フィルハーモニック常任指揮者就任まで
1958年-1969年 ニューヨーク・フィルハーモニック常任指揮者時代
1969年-1990年 ニューヨーク・フィル常任指揮者辞任から晩年まで
バーンスタインが25歳で指揮活動を始めた時期、アメリカ国内で活動していた指揮者はほとんどが他国から移住してきた人たちであり、ブルーノ・ワルターのように第二次世界大戦の難を逃れてきた人も多かった。「アメリカ生まれ・アメリカ育ち」の指揮者はほとんどいなかったため、バーンスタインはすぐにアメリカ・クラシック音楽界の期待の星となる。当時は録音技術もモノラルしかなかったため、バーンスタインの最初期録音は比較的少ないが、彼は早くから幅広いレパートリーを手中に収めていたことが分かる。1953年12月、35歳のバーンスタインはアメリカ人指揮者として初めてミラノ・スカラ座の客演指揮に招かれ、ケルビーニのオペラ『メデア』を指揮した。1950年代前半の時期、若手指揮者として最も目覚ましい躍進を見せていたのが、バーンスタインとイタリアのグィド・カンテルリの2人だった。
1954年11月18日、バーンスタインはCBSのテレビ・ドキュメンタリー・シリーズ「オムニバス」に出演し、ベートーヴェンの交響曲第5番の解説を行った。これが一連の教育番組『青少年コンサート』(Young Peoples' Concert)の出発点となる。ニューヨーク・フィルの常任指揮者就任の前年、39歳だった1957年に彼の代表作『ウエスト・サイド物語』が生み出された。
ニューヨーク・フィルハーモニックの常任指揮者時代は、バーンスタインの主要レパートリーはCBSレコード(現在のソニー・ミュージックエンタテインメント)が独占契約で録音していた。『青少年コンサート』もこの時期の活動で大きな位置を占めている。同オーケストラの常任指揮者の職務にあった時期、バーンスタインは自らの「補助指揮者」の育成にも尽力した。ここから小澤征爾、クラウディオ・アバド、ズデニェク・コシュラーなどの指揮者が育っていった。しかし、この時期は作曲にあてる時間がほとんど取れず、主な作品は1963年作曲の交響曲第3番『カディッシュ』と1965年作曲の宗教合唱曲『チチェスター詩篇』ぐらいしかない。わざわざ「作曲の時間を取るため」1964年-1965年のシーズンは休みを取ったほどである。1966年にバーンスタインは初めてウィーン・フィルハーモニーの客演指揮に招かれ、このオーケストラとの良好な関係は終生にわたって続いた。
1969年を最後にバーンスタインがニューヨーク・フィル常任指揮者のポスト辞任を希望した理由は「作曲の時間を取るため」だった。作曲の分野では『ウエスト・サイド物語』を上回る作品を生み出したいという願いは満たされなかったが、バーンスタインは“世界一の客演指揮者”として高い人望を集めた。1970年代半ばにCBSソニーとの独占録音契約を離れ、ドイツ・グラモフォン社に移籍する。CBSソニーとグラモフォンの両方に録音したレパートリーは重複が多いが、CBSソニーが収録した“旧録音”が優れるものや、グラモフォン社に録音した“新録音”が指揮者としての円熟を感じさせるものなど、残された録音の水準に対する評価はまちまちである。グラモフォンに移籍した後、バーンスタインはライブ・レコーディングを好んだ。1979年10月4日・5日にベルリン・フィルと1度限りの共演が行われた時の、マーラーの交響曲第9番のライブ録音は今なお熱心な聴き手が多い。情熱的できびきびした音楽作りが魅力でもあったバーンスタインは、晩年にはゆったりとした重厚なものを好むようになっていった。彼が最も愛した3つのオーケストラはニューヨーク・フィル、ウィーン・フィル、そしてイスラエル・フィルであった。
2000年10月、バーンスタインの没後10年目にニューヨーク・フィルの「自主制作盤」として「バーンスタイン・ライブ」(Bernstein Live)という10枚組のCDが発売された。中には正規の録音が残されなかった珍しいレパートリーも見出され(ワーグナー『神々の黄昏』、ブルックナーの交響曲第6番など)、ヴィルヘルム・ケンプ(ピアノ)とのベートーヴェン・ピアノ協奏曲第3番ハ短調、ジャクリーヌ・デュ・プレ(チェロ)とのシューマン・チェロ協奏曲などの珍しい共演も正式な録音として発売された。

交響曲
第1番『エレミア』 (Symphony No.1 "Jeremiah") (1942年)
第2番『不安の時代』(ピアノと管弦楽のための) (Symphony No.2 "The age of anxiety") (1947年-1949年/1965年改訂)
第3番『カディッシュ』(管弦楽、混声合唱、少年合唱、話者とソプラノ独唱のための) (Symphony No.3 "Kaddish") (1963年/1977年改訂)
バレエ『ファンシー・フリー』 (Fancy Free) (1944年)
ミュージカル『オン・ザ・タウン』 (On the Town) (1944年初演)
ミュージカル『ウエスト・サイド物語』 (West Side Story) (1957年初演)
ミュージカル『キャンディード』 (Candide) (1956年初演/1989年最終改訂)
オペラ『タヒチ島の騒動』 (Trouble in Tahiti) (1952年)
この作品は後年に大幅な拡大改訂が施され、オペラ『静かな場所』 (A Quiet Place)となった。(1983年)
クラリネット・ソナタ (Sonata for Clarinet and Piano) (1942年)
5つの子供の歌『私は音楽が嫌い』 (I Hate Music) (1943年)
合唱曲『チチェスター詩篇』 (Chichester Psalms) (1965年)
歌手と演奏家、踊り手のためのミサ曲 (Mass - A theatre piece for singers, dancers, and players) (1971年)
合唱曲『ソングフェスト』 (Songfest) (1977年)
前奏曲、フーガとリフ (Prelude, fugue and riffs) (1949年/1952年改訂)
映画『波止場』 (On the Waterfront)の音楽 (1954年)
セレナード (Serenade) (1954年)
バレエ『ディバック』 (Dybbuk) (1974年)
オーケストラのためのディヴェルティメント (Divertimento for Orchestra) (1980年)
ハリル (Halil) (1981年)
ピアノ曲『タッチズ』(コラール、8つの変奏とフーガ) (Touches - Chorale, Eight Variations and Coda) (1981年)
アリアとバルカロール(メゾ・ソプラノ、バリトンと4手ピアノのための) (Arias and Barcarolles) (1988年)

バーンスタインの作品の特徴
バーンスタインの代表作は、何と言ってもミュージカル『ウエスト・サイド物語』であろう。初期の彼はブロードウェイ・ミュージカルで音楽活動の基盤を築き、その分野では早くから人気作曲家になっていた。しかしユダヤ教の影響を受けた宗教的作品の多くは、様々な議論を呼んできた(とくに難解とされる作品は交響曲第3番『カディッシュ』である)。バーンスタインの人と音楽を理解するには、この両極端とも思われる面を把握しなければならない。作風はひとことで言えば「折衷的」なスタイルで書かれたものが多い。1つの作品の中で、ジャズやクラシックなどの様々な音楽の要素を巧みに織り交ぜることである。これも彼の生前には批判が多かった点の1つだったが、現在の演奏家たちはバーンスタインの折衷的スタイルに興味深さを感じる人が増え、近年になって作品演奏のCDも急速に増えてきている。

ハンフリー・バートン著、棚橋志行訳『バーンスタインの生涯』(福武書店刊、1994年、上巻:ISBN 4828817425/下巻:ISBN 4828817433) 没後初めての本格的な伝記。
CDジャーナル・ムック「対決! カラヤン vs. バーンスタイン」(音楽出版社編、1997年、ISBN 4900340065)
写真集レナード・バーンスタイン(原題 Bernstein Remembered, アルファベータ社刊、1996年、ISBN 4871984982)
ウィリアム・ウェストブルック・バートン編、山田治生訳『バーンスタインの思い出』(音楽之友社刊、1997年、ISBN 4276217229)
バートン・バーンスタイン著、須加葉子訳『バーンスタイン その音楽と家族』(新潮社刊、1986年、ISBN 4105193015) 実弟の著書。
バーンスタイン自身の著書
『音楽のよろこび』(The Joy of Music, 1959年)
『青少年コンサート』(Leonard Bernstein's Young People's Concerts, 1962年)
『音楽の無限の多様性』(The Infinite Variery of Music, 1966年)
『答えのない質問』(The Unanswered Question, 1976年) 当時の初版には、画期的なサンプル・レコード盤がついていた。
『発見』(Findings, 1982年)

---Wikipedia
レイモンド・カーヴァー(Raymond Carver, 1939年5月25日 - 1988年8月2日)は、アメリカの短編小説家・詩人。本名はレイモンド・クレヴィー・カーヴァー・ジュニア(Raymond Clevie Carver Jr.)。 オレゴン州クラッツカニーに生まれ、ワシントン州ヤキマに移る。結婚、長女の誕生後にカリフォルニア州チコのチコ州立大学に入学、夜間働きながら創作クラスでジョン・ガードナーに師事する。日本ではもっぱら村上春樹が翻訳を出したことで多くの人に読まれている。
作品内容は、日常の孤独感、挫折、グロテスクな部分などを淡々とした文体で取り上げているものが多い。短編小説の名手として、ヘミングウェイやチェーホフと並び称されることもある。

短編小説集
『たのむから静かにしてくれ』"Will You Please Be Quiet, Please?"
『愛について語るときに我々の語ること』"What We Talk About When We Talk About Love"
『怒りの季節』"Furious Seasons"
『大聖堂』"Cathedral"
『僕が電話をかけている場所』"Where I'm Calling From: New and Selected Stories"
『象』"Elephant"
『ショート・カッツ』"Short Cuts"

詩集
"All of Us: The Collected Poems"
『滝への新しい小径』"A New Path to the Waterfall"
『ウルトラマリン』"Ultramarine"
『水と水とが出会うところ』Where Water Comes Together with Other Water"
『夜になると鮭は...』"At Night the Salmon Move"
"Winter Insomnia"
"Near Klamath"
『足もとに流れる深い川』"So Much Water So Close To Home"

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