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2014年7月10日木曜日

旅行

海外渡航歴は?
80年 米

81年 バリ(サラリーマン、入社)

82年 バリ

84年 ドイツ・米(海外出張、KDD, VENUS-Pのテスト)

87年 韓国

88年 バリ

89年 タイ

90年 バリ

91年 ネパール・タイ

92年 モロッコ・ポルトガル

93年 バリ

94年 香港・マカオ

95年 イタリア

96年 ジャマイカ・米

97年 バリ・米

98年 タイ

99年 韓国

00年 バリ

01年 バリ(サラリーマン、退社)

04年 独立開業

05年 バリ

09年 フィリピン

10年 フィリピン



AUTHOR: AO
TITLE: パラダイス
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CATEGORY: 旅行・地域

DATE: 02/02/2005 05:00:05 PM
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BODY:
バリ島が最後の楽園といわれていたころのことです。1981年の夏に行きました。クタビーチで、ここはパラダイスだと感じました。今日の東京の雲、青空、太陽を見ていると、東京もパラダイスではないか!と感じました。やっとわかりました。パラダイスを探し求めても、まずは、見つかりません。パラダイスを見ても、感じなければ、パラダイスになりません。バリ島で感じたパラダイスと東京で感じたパラダイスは、同じではありませんが、同じようなものです。
(あ洋介!)
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KEYWORDS:

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COMMENT:
AUTHOR: ひらめ
EMAIL: hirame_1119@yahoo.co.jp
IP: 211.14.204.141
URL: http://blog.livedoor.jp/hirame_pure/
DATE: 02/04/2005 05:26:29 PM
ばりにいきたい。

http://blog.livedoor.jp/hirame_pure/tb.cgi/13395498


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COMMENT:
AUTHOR: あ洋介!
EMAIL: ayosuke@nifty.com
IP: 219.66.232.106
URL:
DATE: 02/05/2005 07:58:37 AM
バリも昔とは変わったけど、世の中に変わらないものは何もない。今でも、パラダイスを感じられるかもしれない。
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COMMENT:
AUTHOR: ニジンスカ
EMAIL: appasan@aol.com
IP: 198.81.3.174
URL:
DATE: 02/07/2005 10:39:25 PM
世の中に変わらないものは何もない。。。
でも自分が変わればバリでなくとも
パラダイスは感じられると思う。
青い鳥は身近にいるのだ。


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AUTHOR: AO
TITLE: 旅行-大学時代
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CATEGORY: 旅行・地域

DATE: 03/10/2005 09:38:29 AM
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BODY:
●1年生の秋休みに同級生たちとした東北・北海道の気ままな旅で、旅が好きになった。周遊券を使って普通列車・急行列車を乗り継いで、行き当たりばったりで宿屋を取った。このスタイルは、その後の旅の基本形となった。まだ、青函連絡船しかないころのことだ。とにかく強行軍で、夜中まで遊び、朝早くから列車に乗り継ぐという、睡眠不足の旅だった。
●大学最後の年に、初めて海外へ行った。一番行きたかったアメリカへ。1ドル260円くらいした1980年のこと。大韓航空の格安チケットを買ったが、それでも20万円位した気がする。ロスから入り、サンディエゴに行った。カリフォルニアの青い空が印象的だったが、それ以外は特に面白くもなんともなかった。旅行代理店で、ラスベガス往復チケットを買い、意気揚々と乗り込んだ。そのころは、ギャンブルに自信があり、ブラックジャックを主にやった。初日は勝ったのだが、二日目で負け越した。若い女のディーラーには勝てるのだが、年配の男のディーラーにはなかなか勝てなかった。大学を卒業してギャンブラーの道も考えたが、この件があり、あきらめた。サンディエゴへ戻り、それからニューヨークへ。なにせ、このころの為替レートなので、飛行機代は高かった気がする。当時のニューヨークは、刺激的でエキサイティングだった。面白いことがたくさんあった。身に着けているのが新聞紙だけの半裸の男が、白昼、堂々と五番街を歩いている。道端では、少年・少女いんちき賭博集団がかもを狙っている。メインストリートから脇へ入った小さなジャズ・バーで有名なミュージシャンが、こともなげに演奏している。ニューヨークは、観光で来るよりも、住む場所だと思った。ニューヨークからロス経由で、ハワイへ。旅も終わりに近づき、気が抜けていたためか、エア・チケットを紛失してしまった。帰りの便まで2日しかない。大韓航空のオフィスへ行った。再発行は2日では無理、チケットを新たに購入すれば予約が入っているので、乗れるとのこと。混んでいるので、予約の日に乗れなければ、次はいつ乗れるかはわからないとのこと。そのころは、クレジットカードも持っていなかったし、旅も終わりに近づいていたので、持ち金もほとんどない。日本から送金してもらうにしろ、いつ帰れるか不明。途方にくれてワイキキのメインストリートをとぼとぼ歩いていると、誰かが声をかけてくる。知り合いのカナダ人だった。事情を話すと、お金はあるので貸すという。翌日、金を持って、大韓航空のオフィスへ行くと、チケットを再発行してくれた。カナダ人に金を返し、お礼を言った。翌日、無事に東京へ帰ってきた。

(あ洋介!)

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AUTHOR: AO
TITLE: 旅行-初めてのバリ
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CATEGORY: 旅行・地域

DATE: 03/14/2005 05:17:10 AM
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BODY:
●1981年の夏休みに、初めてバリに行った。
 バリ島は、そのころは、今以上にすばらしかった。ガルーダインドネシア航空で、デンパサールに到着すると、バリ島独特の香りがする。空港は、ぺんぺん草が生えているような粗末なものだった。夜中に到着するので、ちょっと大き目のホテルを予約していた。タクシーで、といってもぼろぼろの自家用車みたいなもので、ホテルへ行った。一泊だけして、次の日にロスメン(簡易宿屋)を探した。クタビーチのポピーズレーンあたりをうろうろして、結局、マサインというロスメンに決めた。ボロ長屋といったいでたちで、冷水のシャワーしかない。一泊二人で七百円くらいだ。サービスで、ポット一杯のお茶とバナナがついている。マサインも今では、プール付の立派な宿屋になっている。宿帳に記入して、部屋に入る。従業員も三人くらいしかいなく、人懐っこい顔で、にっこりしている。マサインに泊まっているのは、オーストラリア人とかヨーロッパの人とかの比較的若い白人がほとんどだ。彼らも非常にフレンドリーで、目が合うとハーイなどと声をかけてくる。屋台とかが道端にたくさん出ており、数十円でちょっとしたものが食えた。
 朝起きて、ビーチに行って、昼飯を食って、ビーチに行って、夕陽を見て、晩飯を食って、ちょっと飲んで、寝る。めちゃゆっくりした世界だ。そのころは、きのこが規制されてなく、トライしてみた。きのこ入りオムレツを食って、ビーチに行った。きのこが効いてくると、色、音がめちゃ感じる。波しぶきやカラフルなバリ風のシャツなどががんがん目に飛び込んできて、まるで極楽だ。若い白人の男女がまっぱだかで、ビーチで遊んでいる。バリネーズのパイナップル売りの声が風の音に乗って聞こえてくる。壜入りのジュースの色が毒々しく目に飛び込んでくる。海岸のやしの木をみていると、ここはどこかいななどと思ってみたりする。楽園だ。きのこは六時間ぐらい効くらしく、ほんとに元に戻るのかいなと思ったりする。夕陽が沈むころには、効き目も少し薄れてくる。ちょっと効きすぎた。僕の場合は、半人前くらいでちょうどよさそうと思った。
 晩飯は、ロブスターやかにやえびなどの海鮮中華などを食ったりした。
 当時は、クタでもケチャックをやっていて、初めて見聞きしたときの感動は忘れられない。バリ絵画も一点購入した。
 ゆっくりした時間に身を浸し、命の洗濯をした思いだった。あっという間に夏休みが過ぎ去って、現実の世界に戻っていった。

(あ洋介!)

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COMMENT:
AUTHOR: あ洋介!
EMAIL: ayosuke@hotmail.co.jp
IP: 211.131.156.111
URL:
DATE: 03/14/2005 04:04:00 PM
その当時のクタビーチには、小さな貝がたくさん生息していた。いつごろからか忘れたが、いなくなってしまった。
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AUTHOR: AO
TITLE: 一度だけの海外出張
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DATE: 03/15/2005 10:47:06 AM
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BODY:
●確か、1983年に最初で最後の海外出張をした。
最初の三年半くらいは、集中的に仕事を行った。ほんとに集中してやれば、四時間も働けば十分などと思ったりした。IBMの大型汎用機があって、それにDECのミニコンをつなぎ、海外はKDDのパケット交換網を使って、国内は電電公社の電話回線を使って接続する。リモートサイトにある自社のパソコンからIBM上のソフトを実行する。そういうシステムを構築した。今のインターネットを考えると、原始時代のネットワークだ。回線速度は1.2Kbpsだった。
 仕事の仕上げとして、ドイツとアメリカに部長と一緒に出張した。ネットワークのテストだ。人形町のTCATで部長と待ち合わせしていた。雪が降っていた日で、TCATを見つけるのにとても苦労した。なんとか無事に成田を離陸し、フランスのドゴール空港を経由し、デュッセルドルフに入った。ドゴール空港では、免税店のオネエちゃんがとても綺麗に見えた。かなり短めのズボンをはいて、帽子をかぶりステッキを持ったカッコいい男の人などもいた。さすがフランス人は、ファッショナブルだと思った。それに比べ、ドイツ人は全然違う。一見すると、怖い感じがした。デュッセルドルフの空港にドイツ人の社員が迎えに来ていて、宿へ案内してくれた。郊外にあるドイツ人しか泊まらないようなシャワーが共同の安宿。これは、とても気に入った。この宿では、まったく英語が通じない。
 独和・和独辞典を片手に、ドイツの通信会社のエンジニアと話しながら、ネットワークの試験を行なった。ドイツの回線は、若干安定しておらず、時々切断された。それでも、一通りテストを完了させた。
 ドイツでは、とても歓迎されて手厚い接待を受けた。到着した日は、日本人駐在員がすし屋に案内してくれた(すしは高いので、駐在員も会社の金を使わないと、めったに食えないのだろう)。丸い形をした牡蠣が印象に残っている。ドイツ人の社員が、ベンツでアウトバーンを飛ばして、お城のレストランへ連れて行ってくれた。フランス料理風だった。ホールでは、ダンスパーティを行なっていた。帰りは飲酒運転だ。アウトバーンをベンツで時速180キロくらいで走っていると、ポルシェがビューッと追い越していく。地元の人が行くような大衆ビヤホールにも連れて行ってくれた。怖い顔のおばちゃんが、頼みもしないのに、どんどんビールを持ってくる。ソーセージやウサギの肉を食った。そこの自動販売機でタバコを買おうと思った。いくらコインを入れても、戻ってきてなかなか買えない。現地の人が買い方を教えてくれた。コインを1枚入れて、チャリンと音がしてから、次の1枚を入れる。日本の感覚では、販売機もうまく動いてくれない。いろいろ楽しく、充実した三日間だった。
 デュッセルドルフからフランクフルト経由で、ロスへ飛んだ。僕は、ペーパードライバーなので、部長のナビゲータをした。ルート101をレンタカーで下り?シリコンバーレーに着いた。いわゆるモーテルというところに投宿した。
 テストは無事完了した。アメリカのネットワークのほうが安定していた。通信会社の女性エンジニアが、マシンルームでタバコをふかしているのには、驚いた。日本でもマシンルームではタバコは吸えなかった。アメリカでもそういう時代もあった。
 部長は付き合いで、色々忙しかった。僕はひとりで、てくてく道を歩いて近場のレストランに行った。歩いている人は、僕以外にはいない。車がないとどうしようもない。中華や焼肉を食べた。日曜日に部長とシスコのフイッシャーマンズ・ウォーフに行った。アメリカ人は、殻から取り出した身だけのかにに、ケチャップをかけて食う。シスコは、大道芸人などがいて、けっこう面白かったが、シリコンバーレーは、あまり面白くない街だった。
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COMMENT:
AUTHOR: あ洋介!
EMAIL: ayosuke@hotmail.co.jp
IP: 211.131.156.111
URL:
DATE: 03/15/2005 07:08:32 PM
アメリカへ入ったのは、ロスでなく、たぶん、シスコです。
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AUTHOR: AO
TITLE: 旅-韓国
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CATEGORY: 旅行・地域

DATE: 03/20/2005 01:58:06 PM
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BODY:
1981年の夏・冬にバリに行って以来、仕事などが忙しく、海外への旅はしていなかった。欲求不満がたまって、機会ができたので韓国に行った。

 87年2月の連休に有給休暇を2日足して、ジャズミュージシャンのT氏の誘いで韓国旅行をすることになった。初めからトラブルがあった。新宿の外国人向けの旅行会社で、ソウル行きのチケットを購入した。チケットはノースウエストのフイックスの格安のものだった。出発当日の成田受け取りだった。出発はお昼ごろの便だったと思う。受け取りカウンターに行くと、チケットが届いてない。確か土曜か日曜だったので、旅行会社に電話しても通じない。チェックインカウンターで、相談してみると待ってくれということだった。T氏は、ソウルに電話して行けないかもしれないと伝えたみたいだ。3時間以上待ったのかな。カウンターの女の人が親切に色々やってくれて、JALのソウル行き(6時頃の便)が取れる、と調整してくれた。ただ、正規のチケットを購入する必要があるとのこと。価格が9万6千円で、手持ちのキャッシュでは、韓国で使うお金がなくなってしまう。クレジットカードが使えるか確認したら、使えるとのこと。クレジットカードでチケットを購入した。T氏は、ソウルへ行けると電話した。
 JALでソウルに8時頃ついた。迎えの運転手が空港に来ていた。30分くらいでホテルに着いた。ホテルの名前は覚えてない。ガイドの女の子が2人用意されていた。とりあえず、飯を食った。何を食ったかは覚えてない。その後、ガイドたちがディスコに行こうと言った。小さなディスコだった。中年のおじさんやおばさんが多かったような気がする。ホテルへタクシーで帰った。
 次の朝、4人で近場の食堂で朝飯を食った。何を食ったかは定かでない。セマウル号で、プサンに行こうということになった。ガイド料が3万円ということなので、僕はガイドを断った。T氏はガイドの1人を雇ったままで、プサンに行くようだ。ソウル駅前で、記念撮影をした。セマウル号でプサンに着いた。駅からタクシーで、フェニックスというホテルに行った。僕は、1人だったので、ホテルのボーイがガイドを斡旋してくれた。日本人好みの顔をした女の子だった。T氏とは別行動にすることにした。ガイドを使った経験がないので、うまくいかなかった。なめられていた。夜、飯食いに行こうと言ったら、食いたくないと言う。都合が悪くなると、日本語が通じない。仕方ないので、ディスコに行くことになった。1流ホテルのでかいディスコだった。ガイドがフルーツやらなにやら取って、払いは2万円。飲みに行こうといったら、ホテルのカラオケスナックへ連れて行かれた。カラオケ歌えと言ったので、日本語の歌を歌ったら、シーンとしている。ガイドと韓国人の女がハングル語でいい争いしている。何をしゃべっているかは不明。ウイスキーを1本空けて、払いは、3万円。頭にきたが、ガイドは、都合が悪くなると、とたんに日本語が通じなくなる。仕方ないので、ホテルにタクシーで帰った。腹が減っていたので、ガイドを無視して屋台でうどんを食った。払いは100円程度。ますます腹が立ったので、歓楽街へ1人で行ってみた。細かいことは覚えてないが(酔っ払っていたので)、屋台の物売りが色々いて楽しかった。子供も夜の11時過ぎなのに、うろうろしていた。屋台の飲み屋で、焼酎(300ml)とソーセージみたいのを食べて、払いは400円くらい。相当酔っ払ったので、ふらふらホテルに帰った。そしたらガイドが、騒いでいる。僕がいなくなったとか身分証明がなくなったとか言っている。無視して寝た。
 朝、かなり疲れていた。こんなガイドを雇っていたら、金がいくらあっても足りないと思ったので、首にした。現金が底を着いてきたので、キャッシングしようと思った。カウンターで銀行の地図を描いてもらった。ボーイが一緒に行こうかというが、1人で歩いてみたかったので、断った。町に出ると、ハングル語の看板であふれている。頭がくらくらした。やっとのことで、銀行を見つけて、キャッシングした。500ドル要求したが、400ドルしか貸してくれなかった。通りに出るとハングル語の嵐。やっと、Caféという、小さい看板を見つけて、入った。コーヒーを頼んだ。えらいまずい。タバコを吸いたいと思って、灰皿をたのんだが、灰皿に紙が敷いてある。アッシュトレー?と聞いたら、そうだというので、タバコを吸った。ホテルに帰って、休憩して、昼飯を食いに行った。水槽に魚が泳いでいる小さな食堂に入った。韓国人ばっかりだった。食堂のおじさんがハングルで話しかけてきた。手振りで水槽の魚をさすと、客は、僕のことが初めて日本人だとわかったみたいで、無言でじろりと見る。1匹丸ごと刺身にして持ってきた。食堂の中は、にんにくと何かが混じった臭いが立ち込めていた。刺身もにんにくで食べるらしく、気持ち悪くなって半分も食わずに出た。
 ホテルに戻った。疲れていた。ガイドブックを見ると、温泉があるみたいなので、行こうと思った。支配人に瓦の付いた宿を見せて聞いたら、100年前にそんなものはなくなったと言った。温泉地にホテルがあるというので、そのホテルを紹介してもらい、タクシーを手配してもらった。ホテルは何の変哲もない小さなものだった。韓国人しか泊まっていないようだった。チェックインすると、またまたボーイが来て、ガイドは要らないかという。地図はないかと聞くと、そんなものはないという。部屋はオンドル部屋だった。とりあえず、ガイドを断ってTVを見ていたら、停電して真っ暗になる。腹もすいていたし、界隈は、あまり店もないようだし、外へ出てもハングルの嵐。仕方ないからガイドを雇うことにした。30才くらいの朝鮮人らしい顔をした女のガイドだった。魚が食いたいというと、松島に行くという。乗り合いタクシーで、松島に行った。松島の老舗の海鮮料理屋だった。魚1匹とあわびを頼んだ。薬味はチシャとにんにく。ガイドがチシャににんにくを載せて、刺身に巻いて食べると教えてくれた。また、にんにくと思ったが仕方ないので食べた。途中で気持ち悪くなった。ガイドはにこにこして、あわびの肝は精力が着くなどと、言っている。そうこうして、タクシーでホテルに帰った。ガイドにもうあまり金がないと、言うと、家に泊まれという。部屋代は取らないというので、そうすることにした。チェックアウトして、彼女の部屋に行った。共同アパートで、真ん中が共用部分で、台所とかトイレとか電話とかがある。彼女の部屋は、六畳一間くらいで、こまごまと色々のものを置いて在る、女の部屋という感じ。彼女は、車の免許を取りたいと言っていた。
 そろそろ帰りのことを考えなくてはならない。ソウルまでセマウルで戻って、ソウルから成田に帰るには、また、キャッシングなどして、時間的にもハードだ。たまたま、正規のチケットを持っていたので、プサンから成田に帰ればいいと考えた。ガイドに電話を借りて、JALのプサン事務所にコンタクトを取った。帰国予定日の便の予約が取れた。
 次の日は、ガイドが慶州に観光に連れて行ってくれるという。朝食を食べた。簡単なサムゲッタンのようなものだった。ガイドは美容院に行って髪をセットした。高速バスで慶州に行った。お墓のある観光場所に連れて行ってもらった。出土品を見ると、小学校のときに、福岡の立岩遺跡で見た出土品と相当似通っている。韓国と九州は近いんだなと実感した。あと、有名なお寺に行った。お寺はとてもカラフルで、日本のものとかなり違うという印象を受けた。他にも回ったような気がするが、あまり覚えてない。高速バスの休憩所で、ガイドがゆで卵を買ってきて、食え、食えというので、2個も食べてしまった。
 次の日は、帰国日だ。ガイドが近くの食堂に連れて行ってくれて、朝食を食べた。焼き魚と味噌汁風のものが出た。空港にガイドと一緒に行って、チェックインした。ガイド料を払い、余ったウオンを円に換えた。釜山から成田へ帰った。リムジンバスで新宿まで帰ってきて、タクシーで帰宅した。耳が変になっており、タクシーのラジオの声がハングル語に聞こえる。この旅は、かなり疲れた。

(あ洋介!)

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AUTHOR: AO
TITLE: 旅-サムイ島
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CATEGORY: 旅行・地域

DATE: 03/21/2005 07:50:33 AM
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BODY:
基本的に夏休みに海外旅行に行った。なんとなく疲れている年は、バリ島に行き、ぼーっとして疲れを癒した。元気な年は、新たな行き先を開拓した。

89年8月にタイのサムイ島に行った。タイ・エアーでバンコクへ入った。パッポン通りのそばにあるローズホテルという連れ込み宿みたいなところに泊まった。この年に、バンコク・エアーがサムイ島に就航した。それ以前は、鉄道で南下し、フェリーで渡るしかなかった。サムイ島の飛行場は、ぺんぺん草が生えた、みすぼらしいものだった。いくつかビーチがあったが、ラマイビーチをなんとなく選択した。バンガローが数軒あった。貧乏旅行者が使う、ほったて小屋みたいのもあった。パニという元気なおばちゃんが管理している、比較的新しいバンガローを選んだ。温水が出て、3000円程度だった。ラマイビーチにはレストランが三軒くらいあるだけで、他はなにもなかった。のんびり過ごした。一度、町のほうに歩いて行った。ムエタイのリングがあった。いかがわしいバーが数軒あった。レストランなどもあった。帰りにオカマバーで一杯飲んだ。サムイ島は、基本的には何もないところという印象が強かった。これから開発が進んでいこうとしていた。バンコクに戻り、ローズホテルに泊まった。パッポン通りでバンコクの夜の遊びをちょっとかじった。日本人に有名なタイシルクの店で土産を買った。トムヤムクン、タイスキ、その他、タイ料理は口にあった。

(あ洋介!)
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AUTHOR: AO
TITLE: 旅-ネパール
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CATEGORY: 旅行・地域

DATE: 03/22/2005 03:34:42 PM
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BODY:
 91年は、タイ経由でネパールに行った。バンコクに在住している知り合いのアパートに泊まった。ネパールに住んでいるJAICAの職員で麻酔医の女の人を紹介してもらった。カトマンズに到着した。空港からタクシーで、エクセシオールというホテルに行ってもらった。予約無しの飛込みだったが、空き部屋があった。カトマンズの街をぶらぶらした。高い建物はほとんどない。ドラッグの売人が時々声をかけてくる。カラフルなスパイス屋や刺繍を施したTシャツ屋が目に留まった。歩いていると小さな子供が後ろについてくる。縄張りがあるらしく、ある場所過ぎるともうついてこない。連れが、かわいげな男の子に話しかけて食堂に連れて行く。モモ(チベット餃子)が大好きみたいで、パクパク食べた。われわれはモモのバッファローの肉の臭いがだめだった。洋風レストランに入る。野菜は消毒してあるので大丈夫です、とか書いてある。生野菜は食べる気がしない。日本レストランもあって、うどんみたいなものを食べた。

 クマリ(少女の生き神様)の館に行ってみた。お土産屋はあったが、クマリは見つけられなかった。連れは、広場でハンセン氏病のおじさんに手渡しでお金をあげる。
 
 麻酔医の家に招待された。ネパール料理をご馳走になった。おかゆと豆のスープと簡単な野菜炒め、これがネパールの典型的な食事らしい。あまりにも質素だ。彼女の運転手が、どこかのストーパ(仏塔)に車で連れて行ってくれた。お土産屋が軒を並べている。帰ろうとして車に乗ろうとすると、老婆がぎゃあぎゃあさけんでいる。お金をあげても怒っている様子。運転手がドアを閉めたら、老婆は車を蹴飛ばした。意味不明だった。

 連れは宝石屋にはまって、安い石をいくつか買った。どこかのお姫様がしていたというアンティークのブレスレットを見せられて、欲しくなったみたいだ。20万円くらいした。一旦は、買わずに店を出た。後日、また店に立ち寄って、結局クレジットカードで買った。店主は大喜びで、われわれを自宅に招待してくれた。ネパールでは少ないアラブ系かインド系のイスラム教徒だった。カレー風の料理と、ナンみたいなものをご馳走になった。女の人は娘も含めて奥にいて、顔も出さない。息子は顔を見せた。

 ホテルの屋上に上がってみたが、夏なのでヒマラヤは見えなかった。チベット難民センターでは、じゅうたんなどの織物を作っていた。

(あ洋介!)


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AUTHOR: AO
TITLE: 旅-モロッコ
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CATEGORY: 旅行・地域

DATE: 03/23/2005 07:40:02 AM
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BODY:
 92年は、ポルトガル経由でモロッコに行った。成田からヒースロー空港経由で、リスボンに入った。真夜中に着いた。市の中心地をうろうろして、やっと安ホテルを見つけた。ポルトガル人は、背は低く、あまりみばえがよくない。いわしの塩焼きなどを食べた。ケーブルカーに乗って、丘の上のファドをやっている酒場に行った。ダンという赤ワインとちょっとしたつまみを頼んだ。ファドは哀愁があって、それなりに良かった。檀一雄がいたというところに行こうとした。近場までは行ったのだが、見つからなかった。

 リスボンからカサブランカへ飛んだ。ガイドブックに載っていたプラザという安ホテルにチェックインしたが、ここがとんでもないところだった。夜中にどんどこ、どんどこ、アラビア音楽が聞こえてきて朝の4時過ぎまでうるさかった。翌日、ボーイに聞くと、結婚式をやっているとか。今日は大丈夫だろうと、たかをくくっていると、また朝までやっている。超睡眠不足になった。モロッコに来たのは、バーで知り合ったモハメドというモロッコ人留学生が、ぜひ遊びに来いといったからである。公衆電話を何度かかけて、やっと女の人がでた。モハメドは居るか、と言うと、旅行中ですとのこと。アラビア人は、調子モンで信じられないとか思ったりした。でも、彼と出会わなければ、モロッコくんだりまでは来ようとは思わないので、これも縁か。カサブランカにも小規模のメジナ(旧市街の迷路の街)があり、恐る恐る中に入ってみた。そんなに複雑ではなく、無事に出ることができた。カサブランカに二泊して、列車でマラケシュへ行った。途中は、砂漠で、らくだなどがいた。マラケシュに近づくと、だんだん緑が多くなってきた。マラケシュは、オアシスなんだと実感できた。

 マラケシュに着いて、どこに泊まろうか検討したが、メジナの中の安ホテルは怖いし、新市街だと面白くないしということで、その中間にある三つ星のホテルにした。プールなど付いていて快適だった。旧市街に行ってみた。ジャマエルフナ広場というのがあって、その奥がモロッコで最大のメジナである。広場は、もともとは公衆処刑場だったらしい。人がごったがえしており、オレンジを山積みにしたジュース売り、奇天烈な格好をした水売り、蛇使い、曲芸団などまさにカオスだった。そうこうしているうちに、ガイドが近寄ってきて案内するという。ガイドは顔に傷があったりして、人相の悪いのが多い。変なガイドだったら、メジナに入って二度と出て来られなくなる可能性もある。直感で良さそうなガイドを選んだ。メジナに入っていった。両サイドが壁になっていて、とても狭い通路とかもある。迷ったら出て来られないなどと不安になりながら、ガイドに従う。ごちゃごちゃ色んな店がある。連れはベルベル人のスリッパを買った。ガイドはベルベル人だった。絨毯屋に案内され、ミントティーなどを振舞われた。友人の女性がトイレに行きたいという。メジナで迷ったら怖いなとか思ったが、子供が案内してくれて、そのうち戻ってきた。そろそろ帰るとガイドに伝える。どこから出てきたか、人であふれかえっている。暮れのアメ横みたいなものだ。ただし、周りはアラビア人がほとんどだが。子供がふたり、うちわを売りつけるようなふりをして離れない。連れが大声を出した。ガイドが子供を殴った。子供は母親のところに逃げていった。すりだ。僕のウエストバックのチャックが開けられていたが、被害はなかった。そのうちメジナから抜け出て、広場で50ディラハムのガイド料を払った。旧市街は、夕方になると人が沸いて出てきて、とても混雑することがわかった。

 モロッコ料理は、クスクス、タジン、ケバブなどを食べた。食堂がなかなか見つけられなかった。高いフランスレストランは見つかったが、大衆食堂がなかなか見つからない。帰るころになってわかったのだが、大通りにはレストランも大衆食堂もあまりない。横道にある程度入ると、地元の人が行く食堂があるのだ。僕は、どうしても白いご飯が食べたくなった。米はある。フランスレストランなので英語が通じなかったが、コックに何とか説明して白いご飯を作ってもらった。500円くらいした。

 マラケシュからカサブランカに戻った。例のうるさいホテルは避けて、別の安ホテルに泊まった。リスボンに戻った。疲れていたので、五つ星のホテルに二泊した。ヒースロー経由で東京に戻って来た。

(あ洋介!)


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AUTHOR: AO
TITLE: 旅-香港・マカオ
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CATEGORY: 旅行・地域

DATE: 03/24/2005 05:58:07 PM
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BODY:
 94年は香港・マカオに行った。中国に返還される前に行っておこうと考えた。香港通の人から、初めて行くときにはツアーで言ったほうが良い、というアドバイスを受けたのでそうした。空港に到着しガイドと落ち合い、ビクトリアピークへ行く。ガイドはジャッキーチェンの話とお金がらみの話ばかりする。高速船でマカオへ行き、マンダリンホテルにチェックインした。リスボアホテルのカジノへ行き、「大小」をやった。勝負中に中国人のおじさんがチップを貸せという。七、八回勝負し、ほとんど勝つ。チップの一部をおじさんに渡して清算した。数千円の浮き。翌朝、市内観光をした。聖ポール天主堂が印象に残った。

 香港へ戻り、島内観光をした。スタンレーは、ただのお土産物街であった。レパルスベイが印象的だった。色々な神様みたいのが祀られていた。中国人の一番人気は一番小さいお金の神様で、大勢が頭を触っていた。右回り?に渡るたびに、一日寿命が延びるという橋もあった。でっかい武将の神様と仙人のような神様を見ていたら、インド人が近づいてきた。しゃべりかけてきて僕の右側の額にできていた吹き出物をさして、その「ほくろ」はラッキーとかいう。変だなと思っていると、そのインド人は詐欺だから相手にするな、とガイドが注意する。このあたりに詐欺が出没することは少ないのに、と言っていた。

 買い物ツアーに連れて行かれる。僕は靴と財布を買った。宝石を製造・販売している店にも連れて行かれた。若い女の説明員が中国語なまりの日本語で工房の説明などをした。彫金職人のなかにはウォークマンを聞きながら仕事をしている者もいた。説明員は職人の給料のことなども説明した。日本より賃金は低い。販売ルームはとても明るくまぶしかった。誰も買う気がないので、そのうち販売員もわれわれに注意を払わなくなった。

 中華料理屋に何軒か行ったが、腹いっぱい飲み食いして、一人あたり、三千円から四千円くらいだった。飲茶はツアーのコースに入っていた。どこで食べても、そこそこうまかった。海鮮料理を食いに「サイクン」に行った。クーロンのホテルからは、かなり遠い漁師町だった。巨大なナポレオンフィシュを水槽に移している。カブトガニなども売っていた。かなり大振りのシャコとハマグリのような貝を買って料理屋に持ち込む。調理料を支払い調理してもらった。海鮮料理は高いがうまかった。「サイクン」あたりまで来ると、あまりぼられないみたいだ。「レイユンムン」では、ぼられることが多いらしい。

 蜂蜜大王の養蜂場にも行った。養蜂箱ではスズメバチがミツバチを攻撃していた。生のローヤルジェリーを買った。香港はメガネが安いと聞いていたので、ネーザンロードの小さな店で買った。

 香港・マカオは、ショッピングと料理とカジノがメインの観光地だった。一度行けば、いいという気がした。

(あ洋介!)

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AUTHOR: AO
TITLE: 旅-イタリア
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CATEGORY: 旅行・地域

DATE: 03/25/2005 07:30:09 AM
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 95年はイタリアへ行った。

 成田を発ってミラノの空港に降り、バスで中心地まで行き、タクシーで予約済みのホテルに着いた。部屋にはエアコンが付いておらず、窓に大きな穴が開いており外側から大きなファンで送風する。少々暑かった。中心地から離れているので、店は少ししかなかった。ホテルのカウンターでレストランを紹介してもらった。薄焼きのピザなどを頼んでビールで乾杯した。フィレンチェ行きの手はずをした。メディチ家の邸宅だったホテル・アプリーレを予約し、列車の切符を買った。駅員は英語が通じないふりをしていたが、しつこく言うと英語で話してきた。ドーモを見学し、こんなでかい石造りの建物をよく作ったものだ、と感心した。夏休みのせいか、店はかなり閉まっていた。

 コンパートメントの列車でフィレンチェへ向かった。ホテル・アプリーレにチェックインした。とりあえずローマ行きの準備をしておくことにした。ローマのホテル・ブルーナを予約し切符を買った。ドーモ付近では、観光客を狙ってジプシーの子供がすりを行っていた。ウフィツィ美術館でボッティチェッリの春やビーナスの誕生を見た。ヴェッキオ橋を渡ってナポリ庭園を散歩した。ピサまで列車を使いバスで斜塔まで行き、見学した。斜塔は改修工事中だった。バスの乗り方のシステムがよくわからなかった。切符の処理は自己申告だった。鉄道も同じく改札は自己申告で、日本と違って面白い。

 列車でローマへ向かった。テルミニ駅は危険だと聞いていたが、とくに危険という感じはしなかった。駅からタクシーでホテル・ブルーナへ行き、チェックインした。トレビの泉に行った。人がたくさんいて混雑している。日本人の団体観光客がぞろぞろ歩いている。泉自体はたいしたことはない。トレビの泉は観光客が大勢集まってくるせいか、両替屋のレートが極端に悪い。

 われわれは、少々疲れ気味だったので、五つ星のホテルに泊まってゆっくりしようということになった。スペイン広場近くの五つ星ホテルを歩いて探しに行く。ネパールで泊まったのと同じ名前のエクセシオールというのがあるので、手ごろかと思って聞いてみると、ダブルで五万円以上。止めた。五つ星ホテルのチェックインカウンターでは、われわれの貧乏な格好を見ただけで怪訝そうな顔をして、部屋はない、とか言う。ハスラーというホテルにも行ったが、やはり五万円以上。くじけそうになる。ローマの休日でオードリヘップバーンが下りた有名な階段を下りて、スペイン広場に出る。有名なブティックが軒を並べている。こぢんまりとした四階建てくらいのディンギルテッラというホテルを見つける。バレンチノ本店の隣だ。だめかと思ったが聞いてみることにした。われわれの格好を見ても、にこにこしている。三万八千円とのこと。ここに決めた。昔の有名な芸術家などが定宿にしていたらしく、われわれの貧乏な姿をみても態度が変わらなかったのかな、と思ったりした。ホテル・ブルーナに戻ってチェックアウトすると言うと、マネージャがどうして?うちのどこが気に入らないんだ?うちは安いよ!なんだったらもっと負ける、とか言う。五つ星に泊まるとかは言わずに場所を変えたいからとか言って、しぶしぶ納得してもらった。タクシーを捕まえ、ディンギルテッラに行ってくれと言う。スペイン広場の前で止まりホテルまで行ってくれない。そのうえ、荷物が多いからチップをもっとよこせと言う。ローマはやはり都会なのでせち辛いのか。ミラノではタクシーの運転手は、にこにこしてよい感じだったのに。たまたま、この運転手がそうだったのかわからないが。ホテルをやっと見つけてチェックインした。快適な気分で二泊した。

  「コロッセオが滅びるとき、ローマは滅び、そのとき世界も滅びる」と言われたコロッセオに歩いて行こうとした。古代ローマの遺跡群フォロロマーノの横を通り過ぎる。つわものどもの夢の後である。コロッセオを目指して進む。ジプシーの子供たちが近寄って来たので追っ払うが、なんだか疲れた。遠くにコロッセオを見たが、戻ろうということになった。バチカンにも行った。国が違うのでビザがいるかと思ったが、いらなかった。バチカンの法王宮前の広場は、タバコの吸殻が散乱している。日本の皇居とは大違いと思った。宮殿のなかに入ったが、このころになると、もう宗教画は見飽きたという感じ。ホテルそばのフェラガモでは、日本人女性の集団が次から次へと靴を買っていた。

 帰るときが来た。ホテルでタクシーを予約する。人の良さそうな運転手が立派なベンツで迎えに来た。ホテルの格を感じた。高い金を払えば、やはりそれだけのことはある。ローマから成田へ飛んだ。

 今回の旅で思ったこと。イタリアは、やはりキリスト教の国だということ。食い物は基本的においしく、目一杯食って2キロも太った。しかし日本でイタリア料理がポピュラーなので、料理にはこれといった印象はない。時間的にベニスやナポリには行けなかったので、機会があれば行きたいと思った。

(あ洋介!)

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AUTHOR: AO
TITLE: 旅-ジャマイカ
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CATEGORY: 旅行・地域

DATE: 03/26/2005 06:31:39 PM
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 96年は、マイアミ経由でジャマイカに行った。

 成田からマイアミ経由でジャマイカのモンテゴベイに入った。空港に運転手が迎えに来ている。モンテゴベイのコンドミニアムに連れて行かれた。ダウンタウンは危ないので行くな、と言われる。ビーチはたいしたことない。レストランもあまりないが、適当に探して適当に食った。日本人のやっているおみやげやでTシャツを買った。レゲーが聞こえてきたので、オープンバーといったところに入った。カウンターで飲んでいると、なつっこい地元の男が話しかけてくる。ついていくと木彫りのお土産屋だ。ちょっと話して、買わなかった。

 ネグリルのプライベートビーチのある宿屋に運転手が送ってくれた。途中、ダウンタウンを通ったのだが、町並みはすすけており、黒人ばかりがうろうろしている。ちょっと怖い。宿は二階建てのアパートといったものだ。キッチンが付いている。海の色が今まで見たことのないような深いブルーグリーンだ。食い物には困った。宿にレストランはあるのだが、三種類を日替わりで出すだけだ。唯一の救いは、ブルーマウンティンコーヒーがとてもうまいことだ。三十分くらい歩いたところにスーパーがあるのだが、ろくなものは置いてない。ビーチで遊んで、まずい飯を食う、そんな退屈な日々を過ごした。モンテゴベイへ戻る途中、運転手がハーブを買っていた。やはり本場だ。

 マイアミへ飛んだ。マイアミのホテルは、喫煙フロア、禁煙フロアに分かれていた。町にはレストランがいろいろあり、欲求不満を解消するために、日本料理やイタリア料理を思いっきり食べた。ビーチはなんと言うこともない魅力のないものだった。ドラッグでラリッテいるような若いのがうろうろしていて、町はちょっと危険な感じがした。暗くなったら外出はできそうもない。帰りの便は朝一番だったので、寝ずにチェックアウトした。マイアミからシスコ経由で成田に帰ってきた。

 今回の旅はネグリルの海の色とブルーマウンティンコーヒーに尽きる。あと、カリブは遠いといったとこか。

(あ洋介!)

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AUTHOR: AO
TITLE: 旅-ラスベガス・バリ
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CATEGORY: 旅行・地域

DATE: 03/27/2005 06:42:29 AM
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 97年は、正月にラスベガス、夏にバリに行った。

 ラスベガスは80年以来だ。前回と同じフラミンゴホテルに泊まった。フラミンゴは老舗だ。80年のときはバニーガールもピチピチだったが、今回はおばさんが多かった。前回は、僕も若かったし、ギャンブルにもとても興味があったし、初めての海外旅行というせいもあるのかもしれない。今回と比べて、カジノにもっと緊張感があったような気がする。ラスベガスも今は方向転換して、カジノ以外にテーマパークなども色々ある。そういう意味で、カジノに緊張感が減ったのかもしれない。今回のギャンブルはプラマイゼロかな。街は夜でも比較的安全に感じられた。道を歩いていてもそれほど怖いという感じはなかった。

 この年のバリ旅行では、初めてジャワ島の遺跡見物に行った。仏教遺跡のボロブドール、ヒンズー遺跡のプランバナンどちらもすばらしかった。

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AUTHOR: AO
TITLE: 旅-プーケット
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DATE: 03/28/2005 09:41:02 AM
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 98年は、タイのプーケットへ行った。

 プーケットは、物価も高いし、ビーチもそれほどよくなかった。特に、印象というものもない。中華レストランで食べた魚のあんかけが、とてもうまかったことくらいか。
 白人のホモセクシュアル?が、バンコクあたりで買ったと思われるタイ人の男の子を連れて歩いていた。。。

(あ洋介!)
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