フランス国王ルイが言った@歴史の教科書
"Apres moi, le deluge"
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080222/p1
"Apres moi, le deluge"
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080222/p1
<注記1>“Apres moi le deluge!”は、偉大な曽祖父であった太陽王ルイ14世と比べ“国家資産蕩尽”王と呼ばれたルイ15世の名言。その意味するところは「あとは野となれ山となれ!」、つまり「無責任なケ・セラ・セラ」のこと(画像はウイキメディアより/左ルイ14世、右ルイ15世)。具体的に言えば、ルイ15世は、ポンパドウール夫人を始め“多く”の愛人らとウツツをぬかす間に海外での英国との覇権闘争に敗れインド・カナダなど“多く”の植民地(国益)を失った。
ルイ16世(仏: Louis XVI、1754年8月23日 - 1793年1月21日)は、ブルボン朝第5代のフランス国王およびナバラ国王(在位:1774年5月10日 - 1792年8月10日)。ルイ15世の孫。王妃は神聖ローマ皇帝フランツ1世と皇后マリア・テレジアの娘マリー・アントワネット。
在位中にフランス革命(1789年-)が起こり、1792年に王権が停止され、翌年処刑された。フランス最後の絶対君主にしてフランス最初の立憲君主である。1791年憲法に宣誓して以後は、称号は「フランス国王」ではなく「フランス人の王」となる。
評価 [編集]
ルイ16世は「狩猟と錠前造りが趣味で妻マリー・アントワネットに操られる無能な王」、「国民の境遇に心を悩ませる心優しい王」という2つの相反する評価を受ける。とくにシュテファン・ツヴァイクの伝記小説『マリー・アントワネット』においてルイ16世を暗君として描いたイメージが広く知れ渡っている。現代のフランスでもニコラ・サルコジ大統領が「私は宮殿で錠前作りに明け暮れる暗君のようにはならない」とルイ16世を無能な政治家の譬えとして発言している。一方、2008年にジャン=クリスチャン・プティフィスが『ルイ十六世』で彼の政策を膨大な史料を元に紹介したところ、ドミニク・ガルゾー・ド・ビルパン元外相などフランスの政治家が同書を取り上げ、ルイ16世を高く評価した。
当時のフランス国民(パリ市民)にヴァレンヌ事件までは絶大な人気を得ていた。当時の財政難はルイ14世とルイ15世の放漫財政も一因であり、財政再建のための改革にルイは積極姿勢を示したが、途中で挫折した。
ルイ16世は、国民の良き支配者、理想的な国王を目指した啓蒙専制君主であった。農奴制の廃止、プロテスタントやユダヤ人の同化政策などをすすめ、科学や地理探検にも理解があり、その支援者であった。さらに三部会召集も第三身分をもって第一身分、第二身分の特権を突き崩そうとしたものであった[17]。当時、マリー・アントワネットが数々のスキャンダルで世間を騒がせていたにも拘わらず、国王の威信が地に堕ちるということはなかった。人々は良き王の統治を求め、実際1789年の三部会開催に際し寄せられた数々の意見は、良き王への陳情という形式がとられていた。
「のちに革命への対応に失敗したからといって、さかのぼって無能の烙印を押すことは避けたほうがよい。とくに欠陥のある国王というわけではなかったろう。ただ、変動期に決断をせまられたときに、強力な指導力を発揮できるような人ではなかった。政治感覚がひどく鈍かったわけではないが、ありていにいえば優柔不断だったのである。」(福井憲彦)
ルイ16世 Louis XVI | |
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フランス国王 (その他) | |
戴冠 | 1775年6月11日、於ランス・ノートルダム大聖堂 |
先代 | ルイ15世 |
次代 | ルイ17世 |
先代 | ルイ15世 |
出生 | 1754年8月23日 フランス、ヴェルサイユ、ヴェルサイユ宮殿 |
死亡 | 1793年1月21日(満38歳没) フランス、パリ、コンコルド広場 |
埋葬 | 1815年1月21日 フランス、サン=ドニ、サン=ドニ大聖堂 |
実名 | Louis-Auguste ルイ=オーギュスト |
王室 | ブルボン家 |
父親 | ルイ・フェルディナン・ド・フランス |
母親 | マリー=ジョゼフ・ド・サクス |
王妃 | マリー・アントワネット |
子女 | |
居所 | ヴェルサイユ宮殿 テュイルリー宮殿 |
信仰 | キリスト教カトリック教会 |
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