大正天皇の妻、黒姫さまが面白い。体が丈夫だったから妃になった。
貞明皇后(ていめいこうごう、1884年〈明治17年〉6月25日 - 1951年〈昭和26年〉5月17日)は、日本の第123代天皇・大正天皇の皇后(在位:1912年〈明治45年/大正元年〉7月30日 - 1926年〈大正15年/昭和元年〉12月25日)。諱は節子(さだこ)。お印は藤。旧名は、九条 節子(くじょう さだこ)。
昭和天皇の母、明仁(上皇)の祖母、徳仁(第126代天皇)の曾祖母にあたる。元華族。公爵・九条道孝令嬢。ハンセン病の予防など救らい事業や福祉事業、蚕糸業(絹糸)奨励などに尽力した。一夫一妻制での最初の皇后。藤原氏から立后する最後の例である。
生い立ち
1884年(明治17年)6月25日、公爵九条道孝の四女として、生母の野間幾子の実家である東京府神田錦町(現:東京都千代田区神田錦町)に誕生。道孝は明治4年(1871年)に正室和子を亡くしており、幾子は道孝の側室だった。
同年7月、東京府東多摩郡高円寺村(現:杉並区)近郊の豪農である大河原金蔵、てい夫妻に里子に出され、『九条の黒姫様』(くじょうのくろひめさま)と[1]呼ばれるほど逞しく育った。農家の風習の中で育ち、栗拾いやトンボ捕りをするなど裸足で遊んだ[2]。
大河原家は高円寺地域の氏神である氷川神社の氏子であったが、大河原家の敷地内には稲荷神社の祠もあった[3]。また、養母のていは仏教への信仰心も篤く、早朝から観音経(法華経の一部)を読経しており、節子もていと共に仏壇に手を合わせていた[3]。
1888年(明治23年)には、赤坂福吉町の九条家に戻る。
皇太子妃候補として
1890年(明治23年)9月1日、華族女学校(後の女子学習院)初等小学科に入学し、1893年(明治26年)には高等小学科に進学する。さらに1896年(明治28年)には初等中学科に進学する。華族女学校では下田歌子、石井筆子、津田梅子らに師事した。中でも、石井筆子との師弟関係の絆は強く、公私の交際は生涯に亘って続いた。
当初、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の妃として伏見宮貞愛親王の長女である禎子女王が挙げられていた。1893年(明治26年)5月に皇太子妃に内定し、1896年(明治29年)には明治天皇と皇后美子とも対面していた[4]。禎子女王は外見が色白で美しかったが、西欧列強と並び立つためにキリスト教文化圏の一夫一妻制を導入する必要性がある中、健康面を不安視され[注釈 1]1899年(明治32年)3月に、婚約は解消された。
九条節子は、正室の子でないことや、色黒すなわち容姿端麗ではないことよりも、先述の通り『黒姫』と呼ばれるほどに健康であることが重視され、1899年(明治32年)8月21日に婚約が内定した。「容姿端麗ではない」とされた節子以外の女性に皇太子が興味を持たぬよう、皇太子は節子を含めた女性との接触を制限された[5]。また、大河原家にあった幼少期の写真は没収された[6]。
皇太子妃時代
1900年(明治33年)2月11日、満15歳(数え年17歳)で、5歳年上の皇太子嘉仁親王と婚約。同年5月10日、宮中の賢所に於いて、賢所大前の儀を執り行った。これは、前4月に制定されたs:皇室婚嫁令に基づく、史上初の神前挙式であった[7]。節子は、和装と洋装を計5回着替え、明治天皇と皇后美子への拝礼を含む多くの行事をこなした。
婚儀は従来の公家様式に代わる、新たな様式であり[8]、婚礼の儀式や行事は、当時の最新マスメディアである新聞によって詳報され、一般市民の関心を集めた。そこで、翌1901年(明治34年)礼法講習会[注釈 2]が日比谷大神宮で二人の婚礼を模して神前結婚式を創始し、以後、ホテル結婚式・披露宴とともに広く普及していった[8]。
還御した嘉仁親王と皇太子妃節子は、それぞれ別に国学、漢学、フランス語等の教育を受けた[10]。成婚当時は教育係の老女官・万里小路幸子らに宮中における礼儀作法を厳しく躾けられ困惑したという。後年には万里小路の指導が自分の素養に大きく役立ったと感謝していた[11]。当時は、皇太子は後の時代よりはるかに自由に行動できており、嘉仁親王は単独で代々木の練兵場や葉山、大磯などへ赴いた[12]。特に大磯と日光には鍋島直大侯爵の別邸があり、イタリア生まれで雑誌グラビアでも頻繁に取り上げられた鍋島伊都子(梨本宮守正王と婚約中)と頻繁に会い、親しく交友していた[13]。
翌1910年(明治43年)頃になると、再び皇太子妃節子は精神的に落ち込んだことを示唆する和歌を遺すようになる[25]。体重が減少した皇太子妃節子を心配した皇后が浜離宮や葉山へ誘った[26]。翌1911年(明治44年)1月27日には、姉の大谷籌子(西本願寺法主・大谷光瑞夫人)が早世し、深い悲しみを受ける。籌子の葬儀から5日後の2月7日から葉山御用邸に滞在し、3月27日に発熱、3月31日に腸チフスの診断を受けた[27]。4月4日以降、回復傾向と伝えられ、7月1日に全快した[28]。長期の静養の間、皇太子や迪宮が葉山を直接見舞うことは無く[29]、また皇后は自ら賢所で祈願した米(賢所御供米)を贈った[28]。
皇后時代
1912年(明治45年・大正元年)7月30日、明治天皇の崩御に伴う、夫・嘉仁親王の皇位継承(践祚)により皇后となる。3年後の1915年(大正4年)11月10日に京都御所にて御大典が行なわれたが、皇后は第4子(澄宮、のち三笠宮)を懐妊中のため欠席した。
1915年(大正4年)12月2日、第四皇男子(第四子/末子)澄宮崇仁親王(のちの三笠宮)を出産。
昭憲皇太后の後継者として、蚕糸・絹業を奨励し、自身も養蚕(皇后御親蚕)に取り組んだ。救癩事業(ハンセン病)に尽くし、灯台守を支援したことでも知られる。皇室や神道祭祀のしきたりや伝統を大切にした一方で、野口幽香、後閑菊野など近代女子教育の研究家を相談相手に宮中に招いた。
日本赤十字社により、1920年(大正9年)7月に第1次ポーランド孤児救済が、1922年(大正11年)8月に第2次ポーランド孤児救済がそれぞれ行われた。この活動によって約800名のポーランド孤児が祖国への帰還を果たした。皇后は4回、見舞金を下賜している。また実際に、単独公務として日本国内の施設に収容されたポーランド孤児たちを慰問するなどもした。
華族女学校時代の恩師石井筆子と、その夫石井亮一が経営する滝乃川学園(日本最初の知的障害者施設)を物心両面から支援し、それは生涯にわたって続いた。1921年(大正10年)に、滝乃川学園が園児の失火から火災を起こし、施設が焼失し、園児にも死者が出たことから、事業の継続を一時断念した石井夫妻に、内旨と下賜金を贈り、再起を促したのも皇后の尽力であった。そのため、学園では、創立者の石井亮一・筆子夫妻、理事長の渋沢栄一に加え、貞明皇后を「学園中興の母」として語り継ぎ、今なお崇敬している。
大正天皇が病に陥り、執務不全後は夫の天皇に代わり皇室を取り仕切り、元老や重臣たちと渉り合った。
1923年(大正12年)9月15日、関東大震災の被災者を慰問、日本の皇后が(単独公務で)被災民慰問をする初のケースであった。
1926年(大正15年・昭和元年)12月25日午前1時25分、皇后の手厚い看護も空しく、療養中の大正天皇が葉山御用邸で崩御。摂政を務めていた皇太子裕仁親王(昭和天皇)の皇位継承および皇太子妃良子(香淳皇后)の立后に伴い皇太后となる。大正天皇の臨終の際には、妻の貞明皇后の意向で、生母の柳原愛子を傍に居させた。
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